『い、や・・・っ・・・いや、だ・・・・・・いやぁ・・・・・・!!』

彼女があんなにも感情を露わにして取り乱したのは初めてのことだ。ただ、見ていることしか出来なかった。
子供のように泣きじゃくり『嫌だ』と叫び続けた。そんなにかけるべき言葉が一つも見当たらなかった。


ずっと一緒だった

出会ってからずっと一緒だった

だけど

その日 初めてを知ったのかも知れない――





「ニコル!」

凛とした響きの声がニコルの名を呼ぶ。そして、顔を上げたニコルの首に軽い衝撃がかかり苦笑が浮かぶ。
本を読む手を止めて顔を上げると同時に、の柔かくて長い深紅の髪がニコルの頬を掠めた。柔かい。
仄かに香るフローラルの香りが鼻腔を擽り、何ともいえない気にさせた。昔ならばきっと抱きとめていた筈。

「・・・・・・。好い加減すぐ抱きつく癖は直した方がいいです」

とはいえ、あの頃は状況も関係も違う。には今、婚約者が居るのだ。そして、自分にも婚約者は居る。
甘い態度は返せない。感情を押し殺すようにニコルは苦笑を浮かべてを離そうとしたがそれを嫌がる。

まるで子供のようにイヤイヤと首を横に振るに思わず溜息が出た。もう自分達は子供ではないのに。
ある種、幼い頃と変わりない自分だけに見せるその姿に心嬉しく思う。だけど、受け入れる事は出来ない。
「ダメです」と、容赦なく引き剥がす。一瞬、が傷付いた子犬のような表情を見せて良心が少し痛んだ。





同い年の大切な従兄弟だ。――とは言え、の父とニコルの母が兄妹なだけであって全然似ていない。
は母親似であるし、ニコルもまた母親似であり、二人の容姿が合致することはおそらくないのだろう。


は幼少の頃から親の『愛』というものに飢えていた。両親が仕事で忙しいこともあったかも知れない。
であった頃のの瞳は大人びていて、とても5歳の子には思えぬほど落ち着いてて、冷静なものだった。
そんなは年に数回、月面都市"コペルニクス"に住む祖母の家に預けられていた。よくメールが来た。
彼女の祖母、アイ・様はとても優しくて聡明で笑顔の綺麗な人だ。全然年齢を感じさせない人。

だが、ユニウスセブンに引っ越したアイ様は2月14日に起こった『血のバレンタイン』の件で命を落とされた。
出会ってからほぼずっと一緒に過ごしていたが、あんな風に取り乱して錯乱するを見た事がなかった。
初めて、奥底に押し隠されてきた『』という人物を垣間見た気がした。彼女はとても弱い。

同時に、

痛々しい程の嘆きに胸が引き裂かれる思いになった。アイ様はにとってのかけがえの無い光だった。
支えを失くすということは、こんなにも容易く、こんなにも人の心を不安定にさせるものなのかと思わされた。
等身大の姿でそれをまざまざと見せつけられた。その日から確実には変わってしまった。危うかった。

――あの事件で唯一生き残ってしまったからだろうか。



『・・・私・・・軍に入る・・・』


かすれた声で、それでも強い意志を込めて呟いた。そういったの瞳はとても強い光を宿していたのだ。
目の当たりにした瞬間、改めてその闇色の瞳に強く惹かれたことは否定出来ない。とても綺麗だと思った。


『もう護れないなのは嫌なんだ。護られるんじゃなくて、この手で護りたい』


その決意を聞いたとき、同時に自分の中にも小さな決意が固まった。それはあの時からずっと考えていた。
が大切なものを護りたいというならば、自分はそんなを、その優しい心を護り続けようと思った。
その華奢で小さな背中に大事なものをすべて担うというならば、彼女を蝕む全てからを護り続けよう。


『なら、僕がを護ります』


の決意に笑顔で自分もそう答えたことは今も覚えている。は眉を顰めてこちらを見遣ったのだ。
それはまるで自分の意図と違うと言いたげな表情だ。だが、はその言葉を否定しようとはしなかった。



「・・・?ニコル何笑ってんの?」 「いえ、何でもありませんよ」

昔といっても一年ほど前だが、思い出して口元を緩めたニコルには不思議そうに小首を傾げて見た。
あまりにも無防備なその姿にますますニコルは笑みを深くして言葉を返す。変なのとは唇を尖らせた。



『・・・ニコルも私が護るよ』

拗ねたような子供のように返答。だが、強く咎めようとはしなかった。誰かの意思を否定する事は出来ない。
それを理解していたから、ニコルの言葉を完全に否定することが出来なかったのだろう。優しい子だから。


――あの出来事が 今の僕らを成している



「もう!ニコルはいつもソレばっかりで全然答えてくれないんだから」

曖昧に言葉を返し過ぎただろうか。遂にマヒトは唇を尖らせて拗ねて、不機嫌そうにそっぽ向いてしまった。
どうやら怒らせてしまったらしい。昔から、はニコルに対してだけは素のまま自分で対応し続けてきた。
それがのニコルに対する信頼の証なのかは知らない。だけど、そんなが好きで仕方が無かった。



そんな君がとても愛しい

そんなが大好きなんです

いえ きっと 愛しています


だから 誰よりも幸せになって欲しい

君を蝕むものは全て 僕が葬ってしまうから

この手で消し去ってみせる


だからもう哀しい夢はもう見なくて良い

はいつでも いつまでも笑っていてください

そして 誰よりも幸せになって下さい


に幸福が訪れる事を願っています

僕では君を幸せにしてあげられないから

その代わり 僕は僕に出来るコトをやり遂げます


だから



「・・・が知る必要ないからですよ」

きっと、の耳には届かないであろう小さな小さな声。いつだってには笑っていて欲しいから。
だから言葉にはしない。この気持ちは言葉にしなくても良いのだ。だって、いつでもこの胸で輝き続けてる。



君は 幸せになって.....




それが利己的な誓いであることは分かっている

2010年4月 脱稿