それはいつのことだったか。今も記憶に焼き付いて離れない存在があった。それはひとりの人間であった。
その者は銀色の髪に翡翠色の双眸。まるで生き急ぐかの如くひたすら駆け大地の褥を数多の血で濡らす。
返り血を浴びて尚も凛然と佇むその姿はケダモノ。だがその者は背中に小さな紫鈍色の羽根を持っていた。

人間がその者を呼び、名が【石田三成】――だと知った。


背に小さな羽根をもつその者は昏い瞳でいつも私を睨んでいた。否、ただ見据えていただけかも知れない。
何かを堪える様に口を固く一文字に結んで私を仰ぎ見る。それが初めて私が【三成】を認識した時のことだ。
沸々と湧き上る記憶の中で【三成】が泣いて笑って生きていた。幾千幾億の記録の中で鮮明に憶えている。

そしてさいごの記憶を見て理解する。


嗚呼――


私は、





その者がいつ生まれたのか覚えていない。私が初めて【三成】を意識したのは冬だった。誰も知らない谷間。
その背に生えた小さな紫鈍色の羽根を閉じてただ風に耐えていた。何かを堪えながら口を結んで仰ぎ見る。
伸ばしても届かない私にただ手を伸ばした。蒼を閉ざして見下す私に幼い人間は何を求めているのだろう。

「       」

あの時【三成】が何を求め何を呟いたのだったか。幾億幾千の生を見届ける私に全ては覚えていられない。
焦がれているのだろう。何に?私に伸ばされたあまりにも短く小さなその手は空を掴んで力なく落ちていく。
そんな小さな手では雲を切り蒼を取り戻すことなど出来ない。【三成】は落ちた掌を固く握って私を睨んだ。

【三成】は私に焦れているのだ。決して届かないと分かっていながら私に求めるようにして手を伸ばすのだ。
その背に生えた紫鈍色の羽根の存在に気付いていない。嗚呼なんと勿体無いことだ。気付けば良いのに。
美しいその羽根に【三成】はどうして気付かないのだろう。それでも【三成】は唯只管、私に焦れ手を伸ばす。


誰も知らない冬の谷間――羽根を閉じて風に耐える。


幾度目かの春が巡り【三成】はいつかのように私に手を伸ばさなくなった。紫鈍色の羽根は段々褪せていく。
成熟した人が求めるのはいつだって同族。私を傷付ける人間を敬愛して仰ぎ見る。その目は歓喜に満ちる。
人間にとって私はあまりに遠い。そして蒼を掴もうとするにはその手はあまりにも小さい事を知ってしまった。

そして、

手を伸ばせば簡単に届く同族を求めたのだ。その翡翠の双眸はもう私を見てはいない。見ようとはしない。
そんな【三成】を私はぼんやりと見下す。感慨もなければ何も感じない。何故なら【三成】は所詮人間だから。
私にとっては掃いて捨てるほど存在する内の一つでしかない。幾億幾千の中の一つなど取るには足らない。
羽根を閉ざした【三成】は所詮人間でしかなく蒼を掴む事は叶わない。春が巡れど羽根は褪せていくばかり。


夏を越せず散っていく――そんな些末なものを留め置く術は無い。



唯一つだけ憶えていられたのが【三成】だった。自ら羽根を閉ざし、それでも空に焦れる人間。愚かな人間。
幾度かの変身を遂げて、届かないと知りながらも手を伸ばした人間。嗚呼どうしてなのだろうね、おまえは。
おまえという人間はどうして叶わないと知りながら私を求めて手を伸ばす。その手は空を掴むばかりで不毛。
漸く、あの時の言葉を想い出すことが出来た。【三成】は私に手を伸ばして、その翡翠色の双眸で仰ぎ見た。

そして、


――永遠を望んだ。


それなのにおまえはその紫鈍色の小さな羽根に気付かない。永遠を願うならその姿を捨てれば良いのだ。
羽根を持っていながらそれでも空を飛べず焦がれるばかり。ならばいっそ現の姿を捨てて心だけに変われ。
お前の望む蒼に届く術をお前は知っているのに。空を仰ぎ永遠を望むというならば。舞い続けたいのなら。
過去の幻を放棄したらよいのだ。柵も幻影も何もかもを捨ててその羽根を広げて風のように変わればよい。


嗚呼でも、おまえはきっと――



「家康・・・っ・・・家康・・・」

うわ言のように紡がれる言葉にただ耳を傾ける。返り血か己の血かも分からない。羽根は紅く染まっていた。
唯がむしゃらに褥を蹴って駆ける。【三成】の通った跡は褥が紅く染まる。焦がれすら感じる声で名を唱える。
いつかに私に焦れたように今【三成】は己の敬愛した人間を奪った人間に焦れる。抱く感情は怨嗟だろうか。


よく見れば【三成】の身体を濡らすのは返り血だけではないと気付いた。【三成】の身体も傷付いているのだ。
それでも足を止める事無く三成は人間を求める。怨嗟の声を漏らしながら、足を引きずり息を切らせながら。
滅びていくことを悟りながらそれでも足を止めない。【三成】は高潔だ。己のさだめを理解し尚、凛然と佇む。

不意にその膝が折れた。遂には力尽きた【三成】が地面に這い蹲りながら手を伸ばす。その先に何も無い。
地平線の先に求めたのは同族なのか。おまえが手を伸ばして求めたのはいつだって私だった筈なのにね。
今の【三成】が焦がれ渇望するのは人間。辿り着く事も叶わないのに。そんなに悲しそうな顔をしなくて良い。
ずっと閉じられた儘のその羽根はまだ潰えていないのだから。たった一度も飛べずに土へかえる命もある。


――おまえは最期までその羽根に気付かなかった。

その理由を私はもう知っている。【三成】は人間だから。本来、人間は羽根を持って飛ぶことなど出来ない。
だからおまえは只管、私を求めて手を伸ばすしかなかった。大空に焦れて、しかし届かず、絶望するばかり。
知っていたよ。おまえが私を見なくなった理由を。私は知っていたんだ。求めて届かない絶望を知っていた。


知っていたんだ――。



風がひんやりと吹き抜ける。季節は冬。いつかの冬の谷間で【三成】は眠っていた。短いその手を伸ばして。
その手を掴むことは私には出来ない。掴み返したいと思ったのは【三成】はその短い手を私に伸ばしたから。
さいごのさいご、おまえが求めたのは私だった。いつかの日のように、私に手を伸ばして永遠を求めたのだ。

嗚呼、


生とはどうして――かくも脆く儚い存在なのだろう。散り逝く生を見届けてあまつ空は涙を零して地を濡らす。
これはとある生の物語。空に焦がれ、永遠を望んだ羽根を持った人間の一生。そして【三成】は眠りにつく。



――一羽の蝶が空へと舞った。






まずはじめに名前変換が無くて申し訳ありません。
実は合唱曲の「蝶の谷」にインスパイアされて思い浮かんだ話だったりします。
抽象的な話になり過ぎてしまったのがちと残念ですが。

2011年7月9日 脱稿