もう気付かないフリは通せない。真っ直ぐに自分を見つめる琥珀色の瞳から逃れる方法をは知らない。
その瞳があまりにも真摯に自分を見つめるから目を逸らす事も出来ない。心なしか熱さえ籠っているような。
常盤色の瞳と琥珀色の瞳が交差する。主君と奴隷の距離にしては明らかにおかしい。何故こうなったのか。


「・・・元就、様・・・?」

冗談ならばこれほど心臓に悪い事は無いだろう。は困惑したように視線を揺らして弱々しく呟き尋ねた。
今ならまだ戻れる。主の気紛れを冗談と受け流して今まで通り接することが出来る自信がにはあった。

しかし、これ以上その距離が縮まるならばそれは無理だ。たとえであっても流すには限界があるのだ。
奴隷と言われようとももまた人の子なのだ。己の心を否定して、拒み続けるにも限界というものがある。
相手が元就ならば尚更無理だ。一度火が点いてしまったならば鎮火する術が分からない。それが恐ろしい。


「・・・我の名を呼ぶな」

常日頃と変わらない淡白かつ命令調。違和感を覚えたとするならばその声がどこか切羽詰まっていた事だ。
真っ暗な部屋の中で行燈を点すこともできずに見詰め合う。互いの顔を認識する術は月明かりの灯だけだ。
元就は闇に浮かんだの木目細かな白い頬に指を滑らせた。びくりとその肩が小さく揺れたのが分かる。

「・・・ッ・・・もと、なり・・・さまっ!」

名を呼ぶなと命令された。しかし、にとって元就の名を呼ぶ事が唯一己の理性を繋ぎ止める術なのだ。
主君と仕える者の関係として、それなりに近しい距離に在った。されど、ここまで意図した接触は無かった。
だからこそ、心穏やかにして傍に在り続けられた。己の心を誤魔化して温もりに甘んじる事が出来たのだ。

幾ら自分が他人の感情に鈍いとはいえ、こうも意図して触れられたなら否応でも理解出来る。だから怖い。
元就の行動がではなく、元就に軽蔑されるかも知れない事が。この浅ましい心とどう付き合えば良いのか。
何も知らない生娘ならばまだもう少し気楽に元就を受け入れられたかも知れない。己の心に素直になれた。

だが、自分は違う。


(――駄目だ・・・っ・・・!)

胸が圧迫されるように苦しい

自分は元就に触れられて良い様な存在ではない。自分が惹かれ焦がれた光を自ら穢す真似はしたくない。
今までは過度ではなくて、ただ、休息の為に取られた接触であった。だから、大丈夫だと言い聞かせられた。
密着しているわけではない。だからこそこれは、あくまで元就の休養の為の事務作業の一つなのだから、と。


――なのに、何故こうなったのだろう。



「黙れと申しておろう」

紡がれたその声はいつもよりも低い。は思わず言葉を失った。己の唇に触れた感触にただ呆然とする。
驚愕とは別にその思考は妙に冷静だった。自分の置かれている状況も冷静に解析する事が出来る程には。
自分の唇を塞いでいる生温かいそれもまた唇。詰まる話、この状況は誰かとキスをしているのだという事。

そこまでは良かった。


「ッ・・・ゃっ・・・」

それが元就の唇だと理解した時、は反射的に身を引こうとして元就の胸を押す。無駄な抵抗だけれど。
そもそも男女の力の差で敵う筈も無い。しかも、後頭部を固定されていては身動きなど出来るはずも無い。
僅かに離れると、反射的に漏れたのは拒む声。それを呑み込む様に元就は角度を変えて再び唇を重ねた。

初めは触れるだけであった口付けが、回数を重ねる毎に深くなっていく。強引かと思えばどこか優しかった。
普段の元就を知っている分、驚きを隠せなかった。何故この人はこうも壊れものを扱うかの如く触れるのか。
酷い。意地悪だ。こんな風にされたら拒めなくなるではないか。己の心にあっさりと負けてしまいそうになる。


「今宵、我は名を持たぬ…」

だから呼ぶな、と。どこか熱っぽく耳元で囁かれた瞬間、は背中にざわりとした感覚が走るのを感じた。
だがその感覚は嘗ての様に気持ち悪いものではない。反射的に顔を上げると元就の琥珀色の目と合った。
琥珀の瞳がジッとを見つめる。その深く澄んだ瞳に見つめられると心が締め付けられる様な気がした。

「…私、は…っ」

いつになく動揺した声だと自分でも分かった。情けない程に揺れた声では元就を見つめたが続かない。
たかが口付け程度。今までの人生の中でほんの刹那にも満たない時で数多の物を突き崩された気がする。
正直、どうしたら良いのか分からない。ほんの刹那で反論の余地を奪われた。拒絶なんて出来る筈が無い。

今、この瞬間さえも、離れた唇の温もりが恋しくて堪らない。自分も相当ヤキが回ったと内心嘲笑が浮かぶ。
護りたいのは己の焦がれる光で、同時に己の脆弱な心だ。しかし果たしてそれが護り切れるか分からない。
初めはあんなにも己を律していたのに。たかがキス一つで、それが一瞬にして覆された。己の心に負けた。

否。――確かにそれを望んでしまった。


「・・・嫌ならば今のうちに申せ」

この人は狡い。その声で、そんな風にと呼ばないで欲しい。そんな熱っぽい声で呼ばれたら拒めない。
愚かだと罵られる事を承知で吐露するならばは元就を慕っていた。奴隷という身分にあるまじき感情。
そう頭で理解している。元就に触れられて良い様な清い生き方をしていない事も。嫌という程分かっている。

アレを生きる為だったからと言い訳にしたくはない。だが、そうしなければ幼い弟が養えないというのも事実。
己の身体を代価に得た金でその日その日を繋いだ。幼い弟は何も知らないフリをしていたが気付いていた。
それでも、そうしなければ自分達の命が繋がらない事も分かっていた筈だ。だから何も言おうとしなかった。
あの日々を間違っていたとは思わない。それでも。今、この瞬間ほど、あの日々を後悔した事は無いだろう。



「・・・っ・・・お戯れはお止し下さい。私は毛利元就の奴隷・・・なれば、どうか、そのままお捨て置きください」

本当の事を言える筈が無い。震える唇が懇願する様にそう紡ぐ。辛うじて涙が零れそうになるのは堪えた。
一瞬、元就が動きを止めた。その顔は闇に紛れて読めない。だから元就の考えを読む事は出来なかった。
大好きなのだ。否、大好きや愛してるなんて言葉では言い表せない。ただ、毛利元就という人に焦がれる。

初めて目を覆う様な光を見た。灰色だった世界が息を吹き返したのは、間違いなく元就に出会えたからだ。
凛然と佇み、迷い無く安芸の未来を捉えるその姿が綺麗だった。その眩し過ぎる光に自分は焦がれたのだ。
長い時を経て、何度も元就の傍に戻るうちに思うようになった。この孤高な光を護り続けたいと。そう思った。


「泣くでない」

いつものように愚かなと罵られるかと思った。否、いっそ、その方が良いとさえ思う。これ以上は壊れそうだ。
その期待を打ち破って元就はの目元を拭った。それも、いつもよりずっと優しい手付きで。そして紡ぐ。
気付かない間に涙は堪え切れなくなっていたらしい。元就の男性にしては華奢な掌がの視界を過った。

「・・・泣いてなど、おりません」

包み込むような掌の温もりには己の限界を知る。せめてもの強がりとして目を伏せながら言葉を紡ぐ。
「何故拒む」解かれた髪を梳きながら元就が尋ねる。この人はきっと何もかも理解した上で言葉を紡いでる。
の元就を慕う気持ちさえも理解した上で彼の智将は利用するのだ。本当に酷い人とは内心思う。

「想う者でも居るのか?」

本当に酷い。仮に想う相手が居たとしてそれならばこの状況になる前に回避している。この状況を許さない。
どうなのだ、と、問い質す様にを見据える琥珀色の瞳を覗いて悟る。この人は知っていて尚、問うのだ。
言い逃れも出来ず、否定する事も適わないこの気持ちを言葉で示せと、敢えて言葉にする間を与える。

「っ・・・私は」

貴方を慕っています。などと、どの口が裂ければ告げられようか。は首を横に振って口を開こうとする。
しかし言葉が出て来ない。想い焦がれるひとは居る。だけど、それを本人に告げる事は許されてはいない。
仮に元就が言葉にする事を許したとしてもそれを告げるだけの勇気をは持ち合わせていない。無理だ。



まるで駄々をこねる子供の様に口籠るを一瞥して元就は小さく息吐いた。男であるがその横顔は美麗。
それを見て感情が渦巻き収拾の付かなかった心が少しだけ静まるのが分かった。不意に名前を呼ばれた。
条件反射で顔を上げる。必然的に元就の琥珀色の瞳と目が合った。「よ」沈黙を通すに告げる。



「我は我で在る限り我を放棄する事はできぬ」

なれども、

そう続けられた言葉に自然との意識はそちらへと向かう。それはいわれずとも知れた事であり今更だ。
むしろ放棄する事があってはならない。詭計智将毛利元就は安芸をはじめとした中国全土を支配する武将。
中国の地に生きる民を護る為に采配を振るう。その腕は驚く程に細い。その腕で穢れに触れてはならない。

考え始めれば思考はどんどん墜ちていくもの。出会った事が間違いだったのではないかとすら思えて来た。
毛利元就に出会わなければこんな不安を知る事は無かった。出会わなければ変わらないままで居られた。
僅かに頭の片隅でそんな風に思う。しかしどうしてもそれを結論と名打つことが出来ない。出会わなければ。


出会わなければ良かった――?

本当にそう思えるだろうか。否、絶対にそんな風には思えない。確かに自分はたくさん変えられてしまった。
として生きる為に必要だった事柄がこちらで生きるうちに突き崩された。世界が急に鮮やかになった。
息を吹き返した世界はどうにも眩しくて、忙しなくて、騒々しくて息苦しかった。だけど、幸せだと思えたのだ。



「なれど、心とやらは自由に出来ようぞ」

フッと元就には珍しく口角を吊り上げて笑みを浮かべた。珍しい物を見たような顔では元就を見つめた。
しかし、その笑みの意味するところを察したは思わず言葉を失う。流石は詭計智将というべきだろうか。
その言葉のひとつひとつに無駄なものは含まれていない。その琥珀色の双眸は「貴様はどうだ?」と、語る。

「・・・仰る意味を理解しかねます」

その言葉に少しの間を置いてはその視線から逃れる様に伏せて返事する。だから何だというのだろう。
元就が自分にどんな言葉を望んでそれを言うのか分からない。否、分かってはいるが理解したくないのだ。
理解してしまえば今度こそ駄目になる。その言葉を紡いでしまいそうになるから。今はまだ言葉にしてない。

仮に元就がの気持ちを知っていたところで自身が紡いだ言葉ではない。言葉は幾らでも偽れる。
だからまだ良い。だが、言わない選択さえも奪われてしまうとそれは即ちの全てを突き崩されてしまう。
今まで護ろうとしたものも、これから先護りたいものも全て。考えれば考えるほど堂々巡りで出られなくなる。


「ならば問いを変えようぞ。何故そうも頑なに拒む?」

悶々と苦悩するに見かねたのか元就は小さく息を吐き出し質問を変えた。の拒絶は異常である。
否、好かれていないならばそれまでだろう。しかしは元就を拒絶しながらも相反して渇望しているのだ。
それを見通せない程、元就もまた鈍くは無い。真っ直ぐに琥珀色の双眸でを捉えて元就は静かに問う。

「・・・私と元就様の距離が正しくないからです」

その瞳を真っ直ぐに見つめ返して言える程は強靭な心臓の持ち主ではない。僅かに目を伏せて言う。
駄目なのだ。これ以上、主君である毛利元就と奴隷であり世話係のの距離感を狂わせてしまうのは。
正しい位置にある二人の関係を覆してはならない。もし壊してしまえば今まで培ったものが失われてしまう。


(それだけは・・・嫌だ)

ズシリ 胸に負担が掛かる

要するに、元就に嫌われたくないのだ。初めて恋をした若い娘というわけでもないのに愚かだと自分で思う。
だがどうしても元就にだけはこの事実を知られたく無い。無かった事に出来る過去では無い。それでも、だ。
知られなければ崩れない距離感もある。否、本当は分かっている。この時点でもう戻れなくなりつつある事。

それでも――



「詰まる話、我と貴様が主人と奴隷である限り覆らぬという事か」

暫く思案した後、元就は静かに言葉を発した。そして同時に今までに触れていたその手をそっと離した。
離れて行く温もりに途端に恋しさが募る。思わず手を伸ばしかけたがそれを必死に堪えては小さく頷く。
居場所を護る為にが導き出した答え。がそれを覆せば今度こそ二人の距離は消失する事だろう。

だから、


「・・・私は毛利元就の僕で御座います」

改めて姿勢を正した後、はまるでそれが使命であるかのように言葉を紡いだ。だがそうではないのだ。
紡がれたその言葉に元就は僅かに眉を顰めた。元就が求める、から発せられる言葉はそうではない。
かと言い、今此処で無理を強いてもは頑なに頷こうとはしないだろう。元就は無言でさっと踵を返した。
去り行くその背中をじっと見つめる。もしもその背中に縋り付く事を許された身ならばどんなに幸せだったか。

しかし、駄目なのだ。

この身はそれを許されては居ない。たとえ元就がそれを許容したとしてもは決してそれを受けられない。
敬愛という言葉で括れないほど数多の入り混じった愛を抱いてしまった。さりとて敬愛すべき唯一無二の光。
この光だけは絶対に穢したくない。そして他の誰にも穢されたくない。それ故、眩い光に触れる事を臆する。

言葉とは如何に無力なものであるのか。「あいしてる」の言葉など紡いだところで意味を成さず軽薄に映る。
さりとて想いを伝える為の言葉は多くない。多くない。しかし、たとえ届かない言葉でもずっと呟き続けよう。
愛している、愛してない。そんな言葉では足りない。「・・・この魂朽ち果てるまで傍に」。羽虫の様な声で呟く。


――ずっと、傍に。




最初は裏に発展する予定だったのですがあえ無く挫折。
べ・・・別に無理に裏にする必要ないですよね!

2010年4月以前 脱稿