「・・・殿。戻られましたか」

どれほど走っていたか定かではない。辿り着いたのは大きな屋敷で、馬と元就を出迎えたのは一人の男性。
見た目は若そうだがそこから歳を判断するのは難しい。「志道か・・・何用ぞ」と、迎えた男を一瞥する元就。
その表情は光の加減で捉えることが出来なかったが、真正面から見ていた志道は肩を竦めてにが笑った。

そして、に視線を向けると驚いたように目を丸くする。しかし直ぐに穏やかに微笑んで小さく会釈をした。
「変わりはありませんよ、ところで彼女は?」と、単に元就を出迎えに来ただけらしい。そして疑問を尋ねる。
元就への敬いは存在するがどこか気安い気した。それに対して元就もまた志道を咎めることは決してない。


「湖周辺を散策していたら拾った・・・それだけのことよ」

一瞬、志道と元就の視線が合う。元就は直ぐに目を逸らすとどこか不機嫌そうに吐き捨てた。思わず失笑。
もう少し他に言い様があると思う。「拾ったって・・・獣では無いのですから」と、案の定、志道がそう突っ込む。
とは言え、それ以上返す気も無いのか「手当てしてやれ」と、元就は命じるだけ。とんだ暴君がいたものだ。

「畏まりました。侍女に命じておきましょう」

元就の態度に志道は小さく笑うとそう答えた。そして「失礼」と、に手を伸ばした。反射的に肩が揺れる。
伸ばされた手は単に馬上からを下ろそうとしただけだ。ホッとした風には表情を緩めて礼を言った。
自力で立てないことを察した志道は元就からを受け取ると、長い廊下を進みある一室へと足を進めた。

道すがら一人の侍女を呼び止める。「浮舟(うきふね)」と呼ばれた彼女は志道から与えられた命に恭しく頭を垂れた。
「浮舟に命じよ」と元就が言っていたが彼女がそうらしい。志道とは違う意味で信頼を置かれているのだろう。

それから然程も経たない間にその場所へと辿り着いた。


「・・・ここは?」

手当ての為と宛がわれた部屋は長く使われてなかったのか少し埃っぽい。だが部屋の造りが繊細だと思う。
ゆっくりと足に障らない様に畳に下ろされた呉葉はその疑問を志道に問うた。廊下に人の気配を感じない。

「我が殿、毛利元就の居城である吉田郡山城です」

物腰穏やかにそう応える志道は普通なら安堵を覚えるものだ。が、それは逆にの警戒心を煽るだけだ。
己を助けた毛利元就でさえ信ずるに値するのか悩んでいるのに新たに遭遇した相手を信用できる筈無い。
教えられた土地名にいまいちピンと来ないのは自分が歴史に疎いから。ただ此処が城だというのは分かる。

まだ当分は元の世界に戻れないのだろうと思う。ならばまず考えるべきは衣食住と今後どう動くべきか、だ。
とは言え、今後の身の振り方が浮かばない。今の自分の状況は身元不明の不審者であるのは確かだろう。
誤解を解こうにもその要素が無い。(・・・参ったな)思わず肩を竦める。状況打破しようにも術が浮かばない。
下手すれば戻るまでの間中ずっと警戒の対象にされてしまう。最悪命の危険に晒される可能性だってある。


「そう警戒する必要はありませんよ、貴女が何者であれ、話は足の手当てが済んでからです」

間も無くこの部屋に浮舟が訪れるらしい。そして、手当てが済んでから改めて話をしようと志道は微笑んだ。
不審者を前に放りだすことも始末もしない。あまつさえこの破格の対応。全く持って理解に苦しむばかりだ。
は困惑した風に志道を見遣る。志道は穏やかに微笑み「では、また後程」と、言葉を残し部屋を去った。

「・・・・・・」

残されたは深く息を零し、この世界に来て初めて表情を崩した。一人の空間がこんなにも落ち着くとは。
困惑と躊躇う事が立て続けに起こった所為か流石に平静を保つのは難しい。人が怖いわけではない筈だ。
ただ、自分の命運が他者に委ねられ、先行きが見えないのがこんなのも不安を煽るものとは思わなかった。


(・・・どうなることやら)

苦笑が浮かぶ

なるべく足に障らぬ様に膝を丸めて顔を埋める。所詮は体温が巡ってるだけに過ぎないが僅かに安堵する。
は孤独に慣れている。今までもひとりだったから当然だと自負できる。が、どこか物足らない気がする。
当たり前の感覚の中に小石を一つ放り込まれただけで違和感が広がった。その違和感の正体は何なのか。
胸の中でもやもやする感覚を振り払う様に首を横に振る。慣れない場所に心が乱れているだけ。問題無い。

――だいじょうぶ・・・。

これは魔法の言葉。いつ何時如何なる時もの心を取り巻いて護り続けて来てくれた魔法の言葉である。
大丈夫と胸の中で唱えていたら挫けそうになっても立て直すことが出来る。己を奮い立たせる事が出来た。
まだ大丈夫だから。この程度では崩れたりしない。自分なら出来るんだと言い聞かせて、そして成し遂げる。
今までもそうやってやり過ごした。闇に囚われる事無くとして立ち続けられた。だから今回も大丈夫。



「失礼致します」

耳に入って来た声には顔を上げた。聞こえてきたのは耳に馴染みの良い凛とした響きの女の声だった。
短く返事をすると静かに襖が開いた。落ち着いた物腰で浮舟は頭を下げて「浮舟でございます」と、名乗る。
何故かノックされるまではその存在に全く気付かなかった。そんなに自分は思案に没頭していたのだろうか。

「あの・・・」

おそらく手当てに来てくれたのだろう。だが、新たな人間の存在に少なからずは動揺を隠せずにいた。
浮舟の言動の一つ一つにはどこか気品のようなものを感じた。それにつられても小さく会釈して返す。
柔和に微笑んでこちらを見つめる浮舟の視線が名を問うものだと気付いた。は笑みを作り口を開いた。

です」 「怪我の手当てをするよう主から仰せつけられております・・・様」

綺麗な名ですね、と、ありきたりな世辞を述べ痛めた足首を見せるように言う。言われた通り患部を診せた。
なるべく気にしない様にしていたが目の当たりにして思わず顔を顰めた。随分と腫れてる上に鬱血している。
思わず眉を顰めたと同様に一瞬息を呑んだ浮舟。だが、直ぐに手慣れた手付きで手当てを施していく。

「・・・慣れてらっしゃるんですね」

見目が醜いと言っても過言ではない。この時代の女人はこういうものに慣れていないと思っていたのだが。
別段、浮舟は気に咎めた様子もなく手際よく処置を進めていく。それを見ては思わずぽつりと呟いた。
不意に浮舟が小さく微笑んだ。弾かれた様に顔を上げると目が合った。「様は血が苦手ですか?」、と。

得意だとか苦手とかそういう領分で考えたことは無かった。女である以上、嫌でも血を目にする機会がある。
とはいえ、やはり好ましいとは到底思えない。足の怪我にしても血が出ているわけではないが気持ち悪い。
逆に考えれば浮船はそうは思ってはいないということ。「・・・浮舟さんは苦手じゃないんですか?」と、問うた。
すると浮舟は小さく笑うだけで明白な言葉を返そうとはしなかった。ただ代わりと言った風に不意に口を開く。


「・・・若様も姫様もやんちゃ盛りですから」

浮舟の脳裏を過ったのは毛利元就の4人の息子と息女。長男の隆元はまだしも弟妹はまだやんちゃ盛りだ。
城を抜け出ては傷を作って帰るのもお手の物。そんな彼らの面倒を見ていたら慣れたものだと浮舟は語る。
あの毛利元就に4人も子供がいることに驚いた。どう見ても20代半ばにしか見えない。年齢詐称も甚だしい。

「浮舟さんは此処に勤められて長いんですか?」

まるで母親の様に穏やかに微笑むものだから薄らと今は亡き母が重なりは僅かに目を細めて尋ねた。
「4年・・・になりますね」と、返答。4年ともなれば相当な時間。だからこそ城内での信頼も受けてるのだろう。
「そっか・・・長いんですね」と、言葉を返したが、先が続かない。何とも表現し難い沈黙が室内を包み込んだ。

「さて、終わりました。間も無く志道様が迎えに参られますので様はこちらでお休みください」

沈黙を打ち破るように浮舟が声をあげた。膝をぽんと軽く叩き破顔する。は弾かれた様に顔を上げた。
またしても志道が迎えに来るのかと考えると自然と身も心も引き締まる。手当ても終えて待つのは尋問だ。

「・・・って浮舟さん!様付けなんてしないでください。そんな大層な身分じゃありませんから・・・!」

ふと思い返して慌てて言葉を返す。自分よりも年上の人に様付けされるなんて事は初めてで落ち着かない。
それ以前に自分は様付けされる様な人間ではない。躊躇いを隠せないまま呉葉は首を横に振って言った。
だが相変わらず浮舟はにこにこと笑みを浮かべるだけで改めようとはしなかった。これは困った気恥かしい。


忘れ咲きの花
(「失礼いたします」と、襖の向こうで声が響いた)


「入れ」

それが執政のものだと察したところで短く言葉を紡ぎ入室を許可する。暫くしてから志道が執務室に入った。
肘置に肘を付いて見る者が見れば明白な元就の気怠さそうな態度。志道は苦笑を浮かべた。機嫌が悪い。

「殿。彼女は・・・「先程も拾ったと申したであろう」」

それだけでは分からないのかと言わんばかりに鋭い琥珀色の双眸に見据えられる。それは先程も聞いた。
しかしそれはあくまで志道の望む返事では無い。言うつもりも、先の言葉を聞く気もないのか、言葉が鋭い。

「それは存じております。しかし彼女は・・・」

言い掛けて言葉を詰まらせた。冷徹に志道を見据える元就の双眸に剣呑な光が宿った。覇気が強まった。
一兵卒なら覇気に圧倒されてその場に居る事さえ苦であった筈。志道さえその覇気に気圧されたのだから。
だが元就の側近として確かめなければならないことがある。主が連れ帰った少女の存在と連れ帰った理由。

――彼女はあまりにも似過ぎている。


「・・・彼女が敵の間諜で無いとも限りません」

少なからずその可能性がある限りの存在を容認する事は出来ない。志道は唯一言そう言葉を紡いだ。
その言葉に元就がぴくりとほんの些細な変化ではあるが反応を示した。しかし言葉を返そうとはしなかった。
言うなと警告されたにも関わらずそれを破ってまでその言葉を紡いだ。相応の処分は元より覚悟している。

「侮るな志道」

腹心の部下が言わんとしている事は十分分かっている。だがその言葉は元就に対する侮辱に他ならない。
冷ややかに吐き捨てて志道を一瞥する。その琥珀色の双眸は怜悧であると同時に一切の感情を含まない。
志道は毛利にそれなりに長く仕えているが歴代の中でも此処まで鋭い目をした主君に会ったのは初めてだ。

確かに詭計智将と称される元就に警戒しろと促すのは愚行に等しい。されども今回ばかりは話が別である。
元就らしからぬ行動の連続だからだ。見知らぬ女を連れ帰っただけでも驚愕を禁じ得ないのに養うなどと。
そうまでする理由で辿り着くのは一つ。毛利元就の正室である亡き妙玖と瓜二つであるからに他ならない。

――だからこそ危ういのだ。

「しかし、彼女はあまりにも妙玖様に――「黙れ」」

似過ぎている。四年の歳月を経て毛利元就が愛した唯一の女性に似た女が現れる等あまりに出来過ぎだ。
警戒をしない筈がない。しかし志道の言い掛けたその言葉は元就の逆鱗に触れたらしい。ただならぬ覇気。
志道ですら総毛立つのを抑えるのは難しい。今の元就を見る事は憚られた。琥珀色の双眸に射殺される。
恐らく過言ではない。言葉のみは静かに発せられたが、その覇気は激昂しているのが明白な程に荒々しい。

「美伊の話はするなと申した筈よ」

その声は短く単調に吐き捨てられた。だが元就のその違和感は長く仕えている志道には十分に分かった。
琥珀色の瞳の奥で小さく何かが揺れる。反射的に迸り掛けた激情を抑えた上で紡がれた言葉なのだろう。
元就の口からその名前を聞くのは久し振りであった。余程の事が無い限りは滅多に言葉にしようとしない。
それをこうも感情に身を任せて紡ぐとは。毛利元就の根本を揺さぶる女人だったのだと再認せざる得ない。


貴重な女人だったのだ――美伊は。



褪せることのない面影

2010年4月以前 脱稿