豊臣全盛期時代に突入してからの毛利は豊臣に従わず戦わず。ただひたすら息を潜め耐える事を選んだ。
全ては中国の覇権とこの毛利、ひいては安芸を護る為の選択とは言え、不平不満を述べる者も少なくない。
諸国に腑抜けだと罵られようと毛利元就は誰よりも現状を冷静に見定めた結果、沈黙を通す事を決断した。

しかしそれが最も賢く、そして、利口な選択だと言えるだろう。元就はこの中国の平穏を一番に考えたのだ。
だがその平穏の為には相応の代価が要った。一度は丸くなったと実しやかに噂された詭計智将毛利元就。
されど、それは刹那の幻にしか過ぎない。冷淡且つ無慈悲と言われた詭計智将の姿が再びそこに在った。

あの選択の日を経て、元就は確かに変わった。

それは一番身近に居たが理解している事であろう。最大の変化は元就がの名を呼ばなくなった。
たったそれだけの事と笑われるかも知れない。しかし、それはが距離を感じるのには決定的であった。
あの日を境に元就は突き放すかのように呉葉を傍に置かなくなった。否、毛利に仕えるどの家臣さえもだ。


「失礼いたします」

背筋を正して外を見つめているだろう元就に呼び掛ける。鋭利な眼光が見据えているのは安芸の行く末か。
ゆっくりとした緩慢な動きで振り返った元就の瞳は以前よりも冷やかで、暗い光を孕んでいる様にも映った。
「貴様か」。吐き捨てられた言葉にじんわりとした苦い思いが広がる。近付けたと思っていた距離が離れた。

「何用ぞ」

用が無いならば失せよ、と。言葉なくとも無言の意図は察せられる。ずっと傍で仕えて来たのだから分かる。
「朝餉を御持ちいたしました」。頭を垂れて紡いだ。元就の纏う空気はぴりぴりと張り詰めていて圧迫される。
息が出来ない。息も詰まる覇気。これこそが本来の毛利元就なのだと否が応でも知らしめられた気がした。


これが、冷酷なる策略家――詭計智将 毛利元就。

だが、それを認めたくない自分が存在した。の知る元就は冷淡さの中にも確かなる優しさが存在した。
言葉は鋭くて態度も決して優しいとは言えない。だけど、いつだってその奥に温もりが見え隠れしてたのだ。
あの姿が仮初だったなんて認めたくは無い。今の姿が虚像だとは思わない。だけど、あれも真実であった。

そう、信じたい。

知っているのだ。元就が一番に捉えているものを知っている。その選択が決して間違えでは無い事だって。
それでも、代価は大き過ぎたと思う。武将としての誇りと同時に、詭計智将の名前さえも踏み躙られたのだ。
失ったものの大きさを計り知る事は出来ない。だが、傍に仕えていた者として思う所は山の様に存在する。


否、これは [ ] としての言葉だ――。



「そこに置いておけ」

相変わらず紡がれる言葉は氷刃の如く冷たい。一言一言が拒絶を意味している様に思えてどうにも痛い。
冷たい響きを孕む元就のその声には一度目を伏せた。もう幾瀬、この拒絶から目を背けて来ただろうか。
その結果がこの距離だ。拒絶を拒絶と気付かないフリを続けて来たが、それももう限界なのかも知れない。

「元就様」

これ以上は無理だ。失せよと暗に示された言葉を退けて言葉を紡ぐ。元就は端正な眉を顰めて呉葉を見た。
には当然ながら国を背負うなど無理な話で、如何に大事かなどは分からない。否、分からなくて良い。
今も、これからも自分は毛利元就の統べるこの安芸の地で暮らすのだから。そして傍で元就を護り続ける。

「・・・何だ」

頭ごなしに拒絶というわけではないらしい。考えずとも、毛利元就は彼の智将なのだから当り前だけれども。
それでも、今から口にする言葉はきっと愚かなと一蹴されるだろう。くだらない事だと自分でも理解している。

だけど、くだらなくなんて――無いんだ。


「何故、の名を呼んでいただけないので御座いましょうか」

どうして、傍に置いてくださらないのですか。紡ぐ声は僅かに震えた。だけども、真っ直ぐに元就を見据える。
元就の怜悧な瞳からその感情の機微を悟る事は出来ない。鼻であしらわれるのが関の山と分かっている。
奴隷の名前を呼ぶか呼ばないかなど、毛利の安泰や中国の覇権に比べれば取るにも足らぬ小事なのだ。

「本気で申しておるのか?」

その瞳に確かな蔑みの色が浮かんだ。そして、案の定「くだらぬ」と吐き捨てる。続けて、「出て行け」、とも。
どこまでも冷淡な言葉と物言い。その言霊のひとつひとつが呉葉の心を容赦なく抉る。痛いとさえ言えない。
愚かだと罵られようとも、蔑まれたとしても構わない。それでも、これだけは譲れない。否、譲りたくないのだ。


にとって他に変えられぬ何よりも大切な事なのだ。この世界で最初に居場所を与えたのは元就である。
とんでもない言葉だった。アレ程インパクトの強い口説き文句も早々無い。詭計智将からは考えらない言葉。
だが、だからこそ今の自分が存在する。あの言葉は全ての始まりだったのだ。忘れられない大切な出会い。

毛利元就に生かされた。

あまつさえ、ずっと手元に置かれる存在だなんて稀だ。奇異や好奇の目に晒される事も少なくは無かった。
だが、それらからさり気なく守ってくれていたのは元就である。毛利で生きる為の環境を全て整えてくれた。
彼に取っては至極簡単で些細な事かも知れない。だけど、その些細な事にどれほど心救われたことだろう。


「・・・くだらなくなどありません」

くだらなくなんて、ない。

まさかが反論するなどと思っていなかったのか僅かに目を丸くする元就。しかし直ぐに表情が失せた。
背中が粟立つ様な感覚。射抜くような冷たい視線。だがそれに負ければきっと後悔するのは自身だと思う。
口を開くのも億劫になる圧力をどうにか耐えて負けじと元就を真っ直ぐに見返した。退くわけにはいかない。

「手駒は駒らしく盤上で演じておればよい」

それ以上の言葉は必要ない。と、個を拒絶された気がした。鈍器で殴られたかのような強い衝撃を覚える。
確かに間違ってはいないだろう。自ら望んで毛利の駒になったのだから大人しく演じ続けるのが当然の事。
それが己の主君が望んでいる事だと理解している。されど、心が納得してくれない。それだけでは嫌なのだ。

「私は貴方様の奴隷であれども、手駒になった覚えは御座いません」

ここまで反論したのは後にも先にも初めてだ。しかし、あくまで自分は奴隷に成り下がっても手駒ではない。
その言葉に元就は何か言いたげに口を開くが結局言葉は紡がれない。しかし苛立ちは隠せない様である。
よもや手駒一つ奴隷風情に噛み付かれるとは思っていなかったようだ。そもそも罰は承知の上での進言だ。

「奴隷風情が大それたことを・・・」

舌打ち交じりに吐き捨てられた言葉が妙にずきりと胸に刺さった。この時になり初めてこの言葉が痛むとは。
風情と切り捨てられた事が衝撃なのか、それとも所詮は奴隷でしかなかった事が衝撃かはよく分からない。


「主に対してあるまじき言葉を申しわけありません」

なれど、処罰を承知の上で申し上げます。

だが、腹を括って向き合うのだと決めた時から逃げ道など考えていない。だからこれもきっと後悔はしない。
は毛利元就の奴隷である。それと同時に、数少ない傍に居る事を許された者なのだと自負している。
きっと詮無き存在だろうと思う。それでも、元就に仕えて満足させて、そして、常に傍に在り主君を護る存在。

そう、遠く無い過去に誓った。

だからと言って、その立場に驕っているつもりはない。許されとは言えども所詮は奴隷に過ぎないのだから。
それでも、自分は毛利元就の奴隷になることを選択した。この人にならば仕えたいと自らの意思で決めた。
誓ったあの日からずっと考えてた。この人に全てを捧げても構わないと、たとえこの身が朽ち果てようとも。
最後まで元就が護ろうとするものの糧に成り得る、引いては元就の役に立つ存在で在りたいとそう願った。



「・・・戯言だと思われるかも知れません」

小さく息を吐き出して心を整える。この言葉を発するのに随分と時間を要した。柄にもなく緊張してしまった。
この時勢にくだらない事で主君を煩わせる奴隷なんて失格だろう。それでもどうしても伝えたい言葉がある。
正直それは単なる我儘に過ぎないかも知れない。しかしこれ以上、今の元就を見ているのは耐えられない。

「・・・申してみよ」

珍しく真摯なの眼差しに何を思ったか、諦めた様に息を吐いて元就が言い放つ。少し戻れた気がした。
しかし、一瞬緩んだ空気も即座に無表情なものに戻り思わず苦笑。しかしほんの少し届いたかも知れない。
淡い期待が募る。可能性が皆無でないなら、言葉を紡ぐ事への躊躇も減る。怖い気持ちは止まないけれど。

「この身、命は元就様に拾って頂いたもの・・・なればこそ元就様の為に」

深呼吸一つ。ゆっくり言葉を刻む。曖昧で確信を得ない回りくどい言葉だと自分でも思うが上手く言えない。
その回りくどさが癪に障ったのか、元就は眉を顰めて呉葉を冷やかに見据えた。理解に苦しむと言った風。

「ならば「ですが、今の元就様には仕えかねます」

大人しく仕えるのが道理。何故、従わずに口答えするのかが理解出来ない。言葉を遮りは更に紡いだ。
真っ直ぐに元就を見据える常盤色の瞳はいつもの温厚さよりも怜悧な光を宿していた。こんな目は久しい。
滅多に見せる事の無い強い瞳。これこそが呉葉の本来のものだと気付いたのはいつの頃だっただろうか。

同時にそれを綺麗だとも思った。


「どういう意味ぞ」

しかし自分を見据えるその双眸は酷く苛立ちを募らせた。元就は肘置きに肘を付いたままを見据える。
何を言わんとしているのか計りかねる。それよりも、がをが気に食わず居るのかがまず理解出来ない。
奴隷として大人しく仕えていれば何も起こらないのに、何故こうも反抗的な目で自分を否定するのだろうか。

「・・・今の元就様の目には何が映っておいでなのですか?」

まるで捨てられた子犬のように不安げに瞳を揺らして呉葉はそう呟く。その目を見た瞬間不快感を覚えた。
何を不快に思ったかは定かではない。が、ただその目を止めろと声を荒げたくなった。が、それは届かない。
唐突且つ不躾な言葉である事は知っている。しかし自分が好きだった目とは違う。それがどうにも嫌だった。

――子供染みた言い分かも知れない。


「知れたことを・・・我が見るのはこの盤上を掌握する姿のみよ」

鼻であしらった様に浮かぶ嘲笑。その言葉には直感的に嘘だと思った。仮にそうだとして何故なのだ。
どうしてそんな目をしているのだ。その琥珀色の瞳に中国、安芸、毛利の未来が映る様には到底思えない。
仮にその双眸に国土が映っていたとしても、その奥では異なる何かが燻っている風に呉葉には思えたのだ。

「ならば何故・・・そんな目をなさるのですか?」

思わずそう無意識に呟いていた。言うつもりなど無かったつもりなのに口はそれに反してただ言葉を刻む。
の言葉にそれはこちらが聞きたいと思う。何故そんな目で自分を見つめ、そのような言葉を吐くのか。
哀しげに細められた常盤色の目を見た瞬間、本能的にそこから目を背けたくなった。一体何だというのだ。
腹の底から沸き上がるそれは何を意味するのだろうか。言葉にならない感情が燻る。無意識に口を開いた。



「・・・そのような目で我を見るな」

哀れまれている様な気がした。未だ嘗てこのような屈辱を味わった事が無い。奴隷風情に憐れまれるなど。
そんな事あってはならない筈。自分は誰だ?毛利家の当主であり、この中国の覇者。詭計智将毛利元就。
それをたかが奴隷の小娘風情に憐れまれるなど。これほどの屈辱があるだろうか。否、あって堪るものか。

「っ・・・は元就様のそのような目を見たくはありません」

きっともう、許されないだろう。それでも言わずには居られなかった。これ以上、元就のあの目を見たくない。
息を顰めたところで戦が止むわけではない。常に周囲に意識を澄ませ緊迫した雰囲気である事は分かる。
情勢が変わって、いつ大きな戦が起こるとも知れないのだから、甘さが命取りになる事だって理解出来た。

だけど、


(それでも、私は)

あの頃の元就様が好きだった。

どこまでも澄んだ水の様な瞳。綺麗な琥珀色の双眸は怜悧で聡明な眼差し。見せるのは中国の未来だけ。
ある者は氷の如く冷たい眼差しだと言った。まるで人形のようだ、とも。確かにあながち間違ってはいない。
まるで完成した人形の様に美しい。凛然とした瞳の奥はとても深く、それはまるで深淵の海の様だと思った。

だがその心は、懐は広い。こんなどこの者とも知れない娘を世話係に置いた。居場所を与えてくれたのだ。
そして傍に居るうちに垣間見れた毛利元就という人。知れば知る程にこの人になら仕えたいと切に思った。
温かい場所と大切な主君。元の場所に戻るまでの仮宿の筈がいつの間にか、大切な居場所になっていた。



「・・・失せよ」

沈黙した元就に一瞬だけ届いたのかと淡い期待が沸いた。しかし、所詮それは幻想に過ぎなかったらしい。
地を這う様な冷たい声に悪寒はおろか震えが止まらなくなった。触れてならない逆鱗に触れてしまったのだ。
いつ斬られてもおかしくないような覇気だ。むしろ、皮一枚でこの命が繋がっている事の方が奇跡に等しい。

「私は・・・っ「黙って聞いておれば侍女風情が過ぎた事を」」

駄目だ。このままでは戻ってしまう。咄嗟に言葉を返そうとするが重ねられた言葉と覇気に息が詰まった。
冷やかに吐き捨てると同時についっと顎を小さく持ち上げれば屋根裏に忍んでいた忍が静かに姿を現した。
毛利が忍の者を保持している事を知らなかったわけではない。薄々となのだがその気配を感じ取って居た。
しかし、が傍に置かれていた頃は元就の近くに忍が忍んでいる事など殆ど無かった。あり得なかった。

「っ」

畳にその身を押し付けられる。忍に取り押さえられたのだと理解した。しかし、それよりも強い衝撃を受けた。
反射的に元就の顔を見つめる。しかし、見据えた先にある元就の顔には感情の色が無い。ただ呆然とした。
先ほど顰められた眉も今はもう元に戻り呉葉を冷たく見下ろした。「連れて行け」と、元就が掌を持ち上げた。

弾けるようにこの胸を掛け巡った感情は何であるのか。今の呉葉にそれを冷静に考える余裕など無かった。
小さく唇を噛締めてただ俯く。元就の顔を見る事が出来なかった。一瞬にして恐怖が消えて感情が潰える。
心が急速に冷える感覚に身の毛がよだった。思い出したくない過去の産物。この感覚はあの頃と全く同じ。


もう 要らないのだろうか――

もう 戻らないのだろうか――





捨てられることには慣れない。

2010年4月以前 脱稿