2010年4月以前 脱稿
が牢に入れられたと知らされたのは今から数刻前の話だ。静寂に包まれた城内で騒々しい音が響く。
毛利家長男の隆元の元へ訪れたのは次男の元春。部屋には既に次女の五龍と三男の隆景が揃っていた。
各々養子や嫁いだ為、兄弟で顔を合わせたのは久しい。が、報せの所為か室内の空気が何とも言い難い。
「・・・投獄されたんだって」
不機嫌さを押し隠す事もせずに隆景は改めてその報せを簡潔に繰り返した。「・・・まじかよ」。元春が呟いた。
まさかあの父がを投獄するなどと露ほどにも思わなかったのだ。確かに父は冷酷無慈悲だと噂される。
実際に処分を命じられ免罪を乞う兵の姿を見た事もある。しかしあくまで役に立たない駒のみの話である。
毛利元就の最も近くに置かれていたを処分するなどとは考え難い。一武将として見ても彼女は聡明だ。
幾度か戦場で背中合わせに共に戦う事もあった。女だてらに見事な腕前と関心さえした。使える駒である。
贔屓目を差し引いたとしては十分毛利の役に立つ存在だ。それを投獄ましてや処分など考えられない。
という人物は自分達にとっては近くて、そして遠い存在だる。家族同然の仲だが血は繋がってない。
初めは父に纏わりつく不届き者だといい顔は出来なかった。しかし、不思議なほどに彼女は馴染んだのだ。
この毛利に。母を亡くして間もない頃で、随分と冷たく当たったものだ。されど、穏やかに笑い首を横に振る。
「元就様の子息ともあろう方が下女風情に謝ってはなりません」――と。
風のように颯爽と微笑んで穏やかに言葉を紡いだ。同年代の女子にしては随分落ち着いた物腰だと思う。
聡明であり柔軟性に長けた。そして、今は亡き母、美伊を思わせる雰囲気を持ち、常に父の傍らに在る者。
そこに色恋といった無粋な空気は存在せずに明白な主従関係があった。揺らがない確固たる信頼関係も。
だからこそ今回の件は信じられなかった。自分の知る限り最も心を許していたであろう者を投獄したなんて。
いつぞやの件ですら処罰はおろか水に流して戻れと命じた父が。余程の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
否、はそんな軽率な真似をしたりはしない。絶対的な忠誠心を抱く主君に対してそんな真似は無い筈。
ならば何故――どこで、あの二人の関係が崩れたのか。
「・・・まだ処罰が決まったわけじゃない」
食いかかる弟妹を宥める様に息を吐き隆元が落ち着けと告げる。隆元とて動揺をしなかったわけではない。
隆元の言葉に不機嫌を隠そうともしない弟妹に苦笑が浮かぶ。揃いも揃っての存在に依存し過ぎだ。
確かに彼女の存在は自分達にとって特殊なものだ。しかし、ここで憤ったところで何の意味も成さないのだ。
「しかし、なにゆえこのような事には父上の・・・」
里帰りの名目で宍戸家から戻った五龍は事の次第が掴めないと眉を顰めて言った。が、言葉が続かない。
考えて見ればと元就の完成は主君と臣下では無い。そもそも、力が在れども彼女は武将ですら無い。
子供達に知らされたのは「この者は毛利に仕える」と、たったそれだけ。その他の事情は何も知らなかった。
「親父殿がを投獄するって事は相当の事だったんじゃないか?」
「・・・・・・しかも、理由は言いたくないみたいだったし」
「分かった。そう一度に喚くな。一度、父上ともお話してみよう」
彼らは毛利元就の子。故に癖は強いが基本的に皆聡明である。にも関わらず此度の理由は思い至らない。
だがあの父にそうまでさせたなれば只事で無いのは明白だ。自分達には知り得ない何かがあったのだろう。
不機嫌そうにぼやく隆景の片頬に小さな痣が在った。加えてこの不機嫌さを考れるなら父と揉めたのだろう。
普段は他者に興味を示さない隆景がこうも不機嫌であるのも、手をあげない父があげた原因も恐らく同一。
毛利に仕えるたった一人の女が原因だ。相当手痛い躾をされたのだろうか隆景が痛んだ頬を擦った。哀れ。
そんな隆景を見ながら隆元は先程牢で目にした光景をふと思い返す。小さくにが笑ったの頼りない姿。
薄暗く埃っぽい獄中ではぼんやりとしながら天井を仰いでいた。気配で漸く緩慢な動きで顔を上げる。
考え事をしていたのか、はたまた別の理由からか、隆元だと判断が遅れたらしい。驚いた表情で見つめた。
そして弾かれたように姿勢を正して頭を垂れた。その動作はもう幾度となく父の傍らに控えていた時に見た。
「・・・隆元様、斯様な場所に参られてはなりません」
貴方が来るべき場所では無い、と暗に含んだ言葉。それに気付かないフリをして隆元は困った風に笑った。
主君の子息だからだろうか、は何度断っても必ずこの態度を示す。そして、隆元も毎度それを諫めた。
双方にとって慣れた遣り取りだ。そして、その日もやはり顔を上げる様にと隆元はに命じる事になった。
「それよりも殿が何故。・・・一体何があったのですか?」
最初に部下から報せを受けた時、驚愕した。父がを牢に入れるなど今までを顧みる限り考えられない。
そうにも関わらず今回それが起こった。それは何故であるか、その真相が知りたいが為に足を運んだのだ。
隆元の困惑を孕んだ問いかけには一種何かを堪える様に目を伏せた。そして困った様に肩を竦める。
「・・・・・・元就様の機嫌を損ねってしまったようです」
そう言って、は苦笑いを浮かべたが、その表情はそれだけでない事を容易に語った。初めて見る顔だ。
おそらくが自分に対してこんな表情を見せたのは初めである。間違いなく2人の間に何かあったのだ。
それが何かまでは察する事が出来ないが、それはおそらく二人の関係を根本から覆す重大な何からしい。
「父上の・・・・・・?」
更に尋ねる。元就は役に立たない駒は罰する。だが子供でないのだから機嫌を損ねた程度であり得ない。
そもそも最近、父は自分の身辺に他者を寄せ付けなくなった。息子である自分でさえも滅多に近付けない。
あのでさえも遠ざけていたと聞く。その状況下で彼女はわざわざ元就に会いに行ったというのだろうか。
――自殺行為だ。
「・・・・・・私は私の我儘を通したに過ぎません。ゆえにこれは当然の処遇」
処刑されなかっただけでも感謝すべきなんです。
そんな顔をして、そんな風に笑ってそれを言うのか。隆元は言葉にならない思いを募らせた。笑えていない。
本人はおそらく笑顔を作ったつもりでいるか知れない。だが、全然笑えていない。それなら笑わなくて良い。
それでもは笑顔を取り繕おうとする。それが己の責務であるかのように。それ以上は聞ける筈が無い。
「・・・殿も言いたくなさそうだったよ」
弟妹の遣り取りを耳に入れながら溜息混じりに隆元が言う。その言葉に3人は動きを止めて隆元を見遣る。
「兄者会いに行ったのか?」意外そうな目を元春に向けられた隆元は馬鹿にするなと僅かに元春を睨んだ。
元就に面と向かって問い掛けたところで答える筈が無い。無謀だ。なら先にに聞くのが道理というもの。
「隆元兄様、に関してだけはちゃっかりし過ぎ・・・」
自分だけが痛い目を見て損したと言わんばかりに隆景がぼやくが、その目は早く続きを言えと促していた。
兄弟の中で一番に懐いているのは恐らく隆景だ。故に今回の出来事を納得していないのまた隆景だ。
だが言うまでもなく父である元就の事も好いている。要は早くいつもの空気に戻って欲しいだけの話なのだ。
「隆景、茶化すでない。それで兄上・・・は何と申していたのです?」
隆元はあまり言いたくなさそうだった。は何かを隆元に告げたのであろう。五龍はその何かを知りたい。
先程よりも少しだけ機嫌がマシになったのか茶化す隆景を叱咤して尋ねる。その目は父親によく似ていた。
「私は私の我儘を通しただけに過ぎない・・・と」
それ以上は何も言わなかった。
あの時の顔を思い出すと居た堪れなくなる。と、隆元は目を伏せてそう告げた。一瞬の沈黙が室内を過る。
その言葉を理解するのもそうだが、その状況に至るまでの経緯を考察する時間も含めて誰もが口を閉ざす。
は何を思ってその言葉を発したのだろうか。あの状況下で父はそれをどう捉えたのか。疑問は深まる。
は自分の我儘を押し通しただけだと言った。しかし彼女は自分の立場をかなり弁えている人間である。
そんなが意図無く不用意に元就に口答えするとは考え難かった。が何を言ったのかは知れない。
だが、きっと、それは必要な言葉だったのだろう。同時に、それは父―詭計智将毛利元就の怒りを買う言葉。
どう考えてもそれ以上は浮かばなかった。しかし、問い質そうとしたところでは決して話してはくれない。
たとえ問う相手が毛利元就の子息である隆元であっても。しかし、それを知らなければ状況は変わらない。
が言葉を閉ざすならば問う相手は一人しか居ない。しかし、それはある種とても勇気が要る事である。
自分は弟妹と違って元就と口論する事など滅多にない。それでも、今回ばかりは話し合う必要性があった。
「・・・父上にお会いする必要がありそうだな」
諦めと覚悟の入り混じった苦笑が浮かんだ。隆元のその言葉に意外そうな顔をして弟妹は隆元を見遣った。
隆元とてこれが他の誰かの為ならば動いたりはしない。動くのは、こうも気にかけるのはだからである。
は自分達にとって家族同然に等しい存在だから。だから、動く。家族間で揉めて欲しく無いと思うだけ。
薄暗い獄中の中で浮かんだのはたった一つの日輪だった。燦々と輝き続けるその光を自分は求め続けた。
奴隷風情がと罵られるかも知れない。それでも自分が追い求め、焦がれ続けるのはあの光だけなのだろう。
この世界に来て一番最初に映した光なのだ。何者にも侵される事は無く孤高の中で燦然と輝き続ける日輪。
その光が厚い雲に覆われて閉ざされるのを見たくなかっただけだ。だから我を押し通して勝手を言っただけ。
「・・・・・・その結果がこれ、か」
視界に映る埃っぽい壁を見て自嘲が浮かぶ。如何に自分が滑稽な存在であるか知らしめられている様だ。
どこかで自分の言葉なら伝わるかもしれないと勘違いしていた。否。届いて欲しいと願っていただけなのだ。
だが所詮は奴隷風情。そんな輩の言葉が中国の覇者に届く筈も無かったのに。どこか自惚れていたらしい。
それならばまだきっと昔ながらに毛利に仕えている家臣の方が信頼を受けている筈だ。当り前の事なのに。
『・・・そのような目で我を見るな』
いつであったか長曽我部元親が元就に言わせた言葉。詭計智将の感情を垣間見られる数少ない言葉だ。
その言葉を己が言わせたと言う事がほんの少しの心を救う。届いたのではないかと期待してしまった。
しかし、とんだ勘違いだ。それは元就の怒りを煽っただけに過ぎなかったから。何一つ変えられなかった。
今だからこそ存在意義を問いたい。何の為にこの世界に存在するのか、何の為に此処で生きているのか。
仕えるべき主君から必要ないと捨てられた以上、自分に存在意義は存在しない。酷くこの存在が不安定だ。
藁をも掴む思いで告げた言葉は元就に届かなかった。元就の傍には忍が居る。だから自分はもう要らない。
「なさけ・・・ない・・・・・・」
この程度で落ち込むだなんて情けない。この程度で傷付くなんて。この20年間で慣れたと思っていたのに。
全然痛みに慣れる事は出来なかった。自分以外の誰かが傍に居ても何ら問題無いのだと知らしめられた。
元就を護るのは自分でなくても良い。は壁に凭れ掛ったまま天井を仰ぎ両腕を交差させ視界を閉ざす。
――闇に溶けられたらいいのに・・・。
自分が欲するものは毛利の安泰と領地の拡大のみ。その為ならば、己の心も他の全ても切り捨てて来た。
たとえ冷酷無慈悲と恐れられようとも一番に選択すべきは先の二つなのだ。此度の件もまたそれ故の選択。
今を凌ぎきれば先には必ず好機がある。だからこれは決して失策ではないのだ。他の誰が何と言おうとも。
「何用ぞ」
襖の向こうから感じた気配に元就は顔色一つも変える事無く吐き捨てた。今日はどうも来訪者が多い日だ。
騒々しい事この上ない。内心そうは思えどもそれを表には出さない。間を置いて襖を開けたのは長男隆元。
開ける瞬間に襖が歪な音を立てたのはおそらく先程三男隆景がしこたま身体をぶつけたからだと思われる。
吐き捨てられた言葉と、明らかに苛立っっているのが分かるぴりぴりした覇気に自然の身が引き締まった。
隆元は息が詰まりそうになる自らをを叱咤して小さく息を吸い込むと「父上」と、覚悟を決めて口火を切った。
「・・・の投獄の件ついて伺いたく存じます」
父と子が話すにしては随分と改まった態度だとは思う。しかし、そうせざる得ない空気を元就は纏っていた。
件で毛利の今後の在り方を「豊臣に従わず、戦わない」と、父は示した。毛利を護る為ならばそれが良策だ。
しかし、その頃から毛利元就の周囲への態度が少しずつだが変わった様な気がする。何と無くだけれども。
「・・・くだらぬ」
あれは痴れ者であった、それだけの事よ。
話を戻して、先の件に関して問うが元就はそれに関して口をわるつもりは一切無いらしく、切り捨てられる。
一瞬にして会話終了。割り入る余地なし。取り付く島もないとはこの事だと隆元は内心深い溜息を漏らした。
確かにたかが侍女一人程度の問題だ。自分達にとってはくだらない大した問題ではない事だと本来は思う。
しかし、隆元や隆景や五龍、元春にとってはとても大切な存在。たかが侍女と呼ぶ程度の存在でない。
――という女は、
きっと自分達一家にとって必要で掛け替えのない存在なのだと思う。それが疑似的に出来た関係であれど。
もう他人と呼んで切り捨てられる距離に彼女は位置していない。この毛利家の一員と言っても過言でない。
だからこそこの話し合いは決してくだらない事ではない。それだけだと言える程度の存在でも無いのだから。
「それは・・・もう彼女を手元に置かれる気はない、という事でしょうか」
不意にそう紡いだ隆元は自身も驚くほど底冷えする冷たい声だった様に思う。だがしかし元就は答えない。
尚も促すように隆元は元就に視線を向けた。今この瞬間に初めて敬愛している父に怒りを覚えた気がする。
「役に立たぬ駒は必要ない」
何を考えて元就がこの言葉を言ったのか知れない。されど、父に食って掛った隆景の気持ちは理解出来る。
自分の毛利家の長男として、そして、後に毛利を継ぐ立場の者でなければどう動いていたか保証出来ない。
あれほど傍に置いてたの事をこうも容易く必要ないと言い切ったのだ。ずっと仕え続けて来た彼女を。
『処刑されなかっただけでも感謝すべきなんです。』
健気なまでに平然と振る舞おうとして笑ったの事を、元就は役に立たない駒は必要ないと言い切った。
は今までどんな無茶な命令であろうとも必ずこなして来た。時間を要せども主君の期待に添うべくして。
そしてそんな風に命じられる自分は恵まれているのだと彼女は笑った。こんな自分でも必要とされるからと。
「・・・ならば私の侍女として貰い受けてもよろしいでしょうか?」
真っ直ぐに見据えた先には感情の読めない涼しげな表情。その余裕の態度が余計に癪に障った。何故だ。
昂ぶる感情を抑え込んでそう紡いだ隆元に元就は「好きにせよ」と、興味の片鱗も見せる事無く吐き捨てた。