本当は最初から分かっていたんだ。否、分かり切っていた事だった。彼女がこの手を選ぶ事は無いのだと。
いつも、いつだって、の目に映っているのはただ一人の人物だけ。そしてその人はとてもよく知る人物。
詭計智将と敬われて、そして、隆元が父と敬愛する毛利元就その人だけだ。ずっと分かっていた事だった。
その事実はこの先も変わらないのだと初めから知っていた。でも、ただ、ほんの少しだけ期待していたのだ。


「・・・・・・」

静寂が酷く重く感じる。呼び付けたにも関わらず一切話題も振らずに外を見つめる元就の後ろ姿が映った。
畏まった風に跪いて頭を垂れるはその無言にひたすらに耐えた。意図が理解出来ず下手に動けない。
ほんの僅かな空気の振動にさえ神経が過敏に反応した。愚かにもまだ何かを期待してるというのだろうか。

そう考えたところでは人知れず自嘲の笑みを浮かべた。何を期待しているというのだろうか。愚かしい。
自分は元就に不必要だと言葉を叩きつけられた。ただ処分を待つ身なのだから。もうあの頃には戻れない。
告げたのは唯一無二の主君である元就で、そんな流れに持ち込んだのは紛れもない自身なのだから。


「・・・隆元の申し出を断ったそうだな」

不意に落ちて来たのは淡白な元就の言葉。少し視線を持ち上げて元就を見ると予想外にこちらを見ていた。
どんな意図を持ってそれを問うのか考えが及ばない。は溜息を吐きたいのを堪えてゆっくりと口を開く。
元就の言っているのは隆元から持ちかけられた侍女にならないかと誘いの件だろう。この人は意地が悪い。

「・・・・・・奴隷風情には過ぎたる御言葉でしたので」

無礼を承知ながら。いつかの遣り取りが嘘だったかのように今のは冷静だ。どこまでも落ち着いた声。
伏せられた双眸は畳の細かい網目模様を見つめるだけ。己の心も網目模様に少し似ているように思えた。
相変わらず元就の纏う空気は冷たくて少なからず緊張感を覚える。しかし、それでも心は妙に冷静だった。

己の心が鈍くなってしまったのだろうか。元就の冷たい言葉にも衝撃を受ける事無く淡々と言葉を切り返す。
何を思って今更そんな事を問うのか理解出来ない。何れにせよ酷い。受ける筈無い事は分かっている筈だ。
だというのに、敢えてそれを問うというのか。あの日の誓いなんてどうでも良いと言われてるような気がした。


『そなたも何れ我の前から消えるのであろう』

そんなの――

『どこに居ても、たとえ、長い時を経たとしても・・・・・・必ず』

――イヤ、だ。


あの言葉を、あの誓いを、今更無かった事になんしたくない。あれは自分が初めて思った心からの言葉だ。
幼い元就――否、あの頃は松寿丸だった。一方的にだが約束した。傍に居る、と。あれは我を通しただけ。
『傍に居たい』――そう願った自分の一方的な口約束だった。だけど、あれは確かな切っ掛けだったと思う。

現に自分と主君、毛利元就との距離は確かに縮まった。元の時間に戻った時、優しく手を差し出してくれた。
初めて見た穏やかな表情と、呼ばれた名に涙が溢れてしまいそうになった。ただ愛しさが込み上げて来た。
あの時間を経て自分は生涯毛利元就という人に仕え続けたいと願ったのだ。ほんの些細な事に過ぎない。

されども――


「・・・そなたは、」

不意に小さく、掠れた声で元就が呟いた。だが、途中まで呟いて元就はそれ以上の言葉を言おうとしない。
決して大きく無い声だとは言えがその言葉を聞き逃す筈が無い。顔を上げると琥珀色の瞳とぶつかる。
冷淡な光を堪えるその瞳の奥で何かが揺れた気がした。それはもしかすると単に目の錯覚かも知れない。


だけど――大切な事かも知れない。

元就らしからぬ態度に目を疑った。しかし、それと同時にどこか既視感を覚えた。刹那、脳裏を過った記憶。
それはいつだったか、摩訶不思議な経験をした時の事。会う筈も無いだろう松寿丸の頃の元就と出会った。
孤独とその双肩に背負う強固な信念を知った。そして、元就はその信念を貫く為に孤高を選択するだろう。
ならばせめて自分は詭計智将 毛利元就が孤高の下、采配を揮えるようにその足元を護ろうと心に誓った。

あの方が後ろを振り向かないで済むように。ただ前だけを。毛利の未来だけを見据えていられるように、と。
自分は毛利元就の信念に心惹かれて囚われた隷属の身なのだ。毛利元就が奴隷。それで構わないと思う。
何故忘れていたのだろう。どうしてもっと早く気付けなかったのだろうか。自分はどうしようもない愚か者だ。
あの時を経て自分と元就の絆はより一層強固なものになった筈なのに。どうして大切な事を見落としたのか。
松寿丸である元就を知った時から分かっていた筈なのに。今も昔も、あの方は何一つ変わっていないのだ。



「・・・・・・続きをお聞かせくださいませんか?」

どんな些細な事でもそれが切欠に成り得るかも知れないから。だから些細な言葉でも構わない。聞きたい。
ゆっくりと紡がれた言葉に元就は沈黙し、二人の間に再び静寂が訪れた。主君に対する躊躇いが消えた。
投獄された事で後が無い事を理解しているからなのか。色んな意味で覚悟と踏ん切りが付いた気がする。

むしろ、恐れるべきは一つだけだ。


「・・・詮無き事よ」

を一瞥して視線を外す。そして、元就が静かに言葉を紡いだ。相変わらず容赦の微塵も無い物言いだ。
毛利元就の強みは策を講ずるだけに在らず。巧妙な言葉で相手を翻弄し己の弱みは晒さない。彼の強み。
当然の事かも知れないが、これを平然とやってのけるのは難しい。毛利元就はその中でもずば抜けている。
今まで何度も見落として来た。大切な事に何一つ気付く事無く翻弄され続けたなら好い加減に気付くだろう。

「ならば私が申し上げてもよろしいでしょうか?」

この調子だときっとのらりくらりかわされるだけで言葉は貰えない。なら先手必勝でこちらから言ってしまう。
「・・・申してみよ」。何の気紛れなのか元就はを見る事無くただ一言、言葉を吐き捨てるように言い放つ。
話しだけならば聞くと言った姿勢にどう言葉を発するべきか考えを巡らせる。下手を踏めばまた繰り返しだ。

――それは頂けない。

しかし、かと言って場に相応しい言葉が思い浮かぶかと言えばそうでもない。過るのは我儘な言葉ばかり。
自分も案外、欲深い人間だったのだなと改めて自覚させられた。今までこんなにも強く望んだ事は無かった。
ただ、流されるがままに生きて来た。死にたいと思わなかったけれど、特に生に執着していたわけではない。

それが何時しか、この場所で毛利元就と出会った事で自分は根本的に変えられてしまったのかも知れない。
自分の血縁関係無い他者の為にこの身を捧げたいと思うなんてあり得ない。そんな事あり得ない筈だった。
それなのに自分は願ってしまったのだ。触れてはならないその光を渇望してしまった。傍に居たいと思った。
だからこそ言葉にしたいと思った言葉はこれの他に置いて浮かばない。――貴方は覚えているでしょうか?


この言葉を、覚えているでしょうか。



は元就様の御傍に居ります」

一息に言い切れるくらいの短い言葉。だが聞き覚えのある一言に元就は目を見張る。前触れの無い言葉。
果たして何のつもりで元就はその言葉を発したのだろうか。一瞬思考が追い付かなくなった。ただ懐かしい。


「どこにいても、たとえ、長い時を経たとしても・・・・・・必ず」

は元就様の元に戻って参ります。

更に続けて紡がれたその言葉は聞き覚えがある。元就は思わずを凝視した。何故今それを言うのか。
を捨てた元就に対して、どうして再びその誓いの言葉を口にするのか理解が出来ない。何が言いたい。
しかしは微笑んで居た。あの頃と寸分も違わない穏やかな微笑みを浮かべては元就を見つめた。


「・・・分かり易く申せ」

はっきりと主君に対して意見する割には肝心な言葉は言おうとしない。煮え切らない態度に苛立ちが募る。
吐き捨てるように元就が言葉を紡いだ。まただ。またあの目をする。あの瞳は忌まわしくて思えてならない。
まるで何かを訴えるかの様に自分を見据える常盤色の双眸が無性に腹立たしくて堪らない。気に入らない。

「振り向かないでください」

元就の問いに答えてない。返されるのは抽象的な言葉ばかり。だがの瞳はどこまでも真摯な光を宿す。
確かに分かり難い事この上ない答えだ。だがこればかりは本人が気付かなければ意味が無い。気付いて。

そしてもう一度――。


優しい御方だ。だから気付いても気付かないフリをするのかも知れない。常に毛利の者を気にかけている。
きっと元就はその事実を認めようとはしないだろう。兵は駒だと元就は言う。しかし、どこまでが本音なのか。
毛利元就は氷の面などではない。その熱く滾る激情を常に抑え込んでいるだけだ。読み難い人だとは思う。

だけど優しい人。

今は確かに堪える事が正しい判断なのかも知れない。息を潜めて耐える凌ぐ事が最も賢い選択なのだろう。
だが結果としてそれが臣下さえ遠ざけて氷の面に元就を戻らせた。いつだって判断を鈍らせるのは迷いだ。
迷いを抱けば道を見誤る事を元就は理解している。そうにも関わらず惑い判断を鈍らせたのは何故なのか。



「・・・顧みる必要など無かろう」

我は振り返った覚えなど無い。

そう答えた元就には間髪入れずに「元就様は嘘吐きですね」と、言葉を切り返した。小さく浮かぶ笑み。
眉を潜め元就はどういう意味かと言わんばかりに鋭利な眼差しを向ける。の言葉の意図が掴めない。
どんな言葉を望んでは元就に意見しているのだろうか。苛立ちを堪えて、元就はの言葉を待った。


惑いの理由はおそらく人間ならば誰しもが持つ情故。中国安芸を治める毛利の領主として統べる毛利元就。
その背に数多の命が背負われている。毛利元就が領主になると同時に背負った決して捨てられない重荷。
だが彼は武将。武将としての誇りも存在する。武将としての誇りと負うべき命を両天秤にかける事を惑った。

そもそもこの二つは両天秤にかけるべきものではない。武将の誇りには統治国の民とて含まれるのだから。
国あってこその武将、民あっての国。――故に天秤にはかけられない。だがあくまでそれは理論上の話だ。
先の戦で毛利元就は改めて背に負う数多の命の重さに気付いてしまう。孤高の羽根がもがれそうになった。


毛利元就は孤高でなければならない。遥か高みより周囲を見渡して冷静に策を講じて采配を振るうべきだ。
だが毛利元就は決して孤独であってはならないのだ。孤独である者は武将として決して成り立たないから。
兵を駒と称するのはあながち外れではない。を含め毛利の者は皆駒なのだ。大将を活かす駒である。
それを兵達は誇っている。自分達が仕える存在は自分達の働きによって活かされているという事実がある。
それ故に、自分達は決して負けてはならない。それなのに、先の戦では惨敗――息を潜めざる得ない結果。

思えば、そうなってからだ。元就がいつかの冷酷無慈悲な詭計智将と呼ばれていた頃に戻り始めたのは。
役に立たぬ兵とは言えども民を護る大事な駒。しかし、戦に負ける程度の駒ならばその存在の意味が無い。
兵を律するならまず己を律するべき。兵を律するのはそれからだ。それ故に微温湯に甘んじるのを止めた。

そんな事は必要ないというのに。元就が自らを律する必要性はどこにもない。その為に己は居るのだから。
毛利元就の足場を護る為に。元就が振り返らずに気兼ねなく采配を振るい戦えるように。それを護るから。
その背中を自分が護る。そう誓ったのはで、受け入れたのは元就だ。あの頃から何一つ変わらない。


――変わってはいない。



「私は毛利元就の駒」

・・・後ろはお任せくださいませ。

改まったように跪いて右手を胸に添える。中世の騎士のように頭を垂れて紡ぐ様はどこか神聖な儀式の様。
微塵の迷いの色も見せないの言葉を、その姿を。元就は無言で受け入れ見据えた。音一つない空間。

否、2人の間に言葉は要らない。


「・・・よ」

長い沈黙の押し通した後、元就は小さくその名を呼ぶ。その口から聞くのは久し振りでどこかくすぐったい。
だがそれよりも胸を支配したのは歓喜の感情である。思わず笑みが浮かびそうになるのを堪えて返事する。
「面を上げよ」。近くで元就の声が聞こえた。指先が顎に触れたと思えばくいっと持ち上げられて視線が合う。

目の前には端正な元就の顔が映った。その琥珀色の双眸は真っ直ぐにを見つめてスッと細められる。
それが何を意味するのか、元就が何を考えたのかはでは到底理解が及ばない。だが何かが変わった。
あくまで予想の範疇でしかないがそんな気がする。この距離に戻れた事が何よりの証拠だとは思った。

「そなたは我の奴隷、我が駒よ」

紡がれる内容は別として、その声は心地良い。は目を伏せて畏まった態度でこくりと頷いて微笑んだ。
元就の瞳の奥に以前見えた翳りが消えたように思う。あのいとしいと思えた光が再びその瞳に宿っていた。
その事実がどうしようもなく嬉しい。ほんの些細な事かも知れない。でも太陽の花が再び咲いたのだと思う。

「・・・最期の瞬間まで御供いたします」

再びと距離置いて、窓から安芸の地を見つめる元就の後ろ姿には誓いの様にその言葉を紡いだ。
その言葉に元就は直ぐには返事を返さなかった。ただ無言で己の治める領土を見渡した。穏やかな時間。
静寂に満ち溢れた室内に流れる穏やかな空気をその身に感じてそっと目を伏せる。焦がれ続けた光景だ。


ずっと、悩み続けていた。
ずっと、迷い続けていた。

誰が為に鐘は鳴るのかと――

願わくば、群雄割拠を生きる全ての者の為に。
願わくば、中国の地で暮らす民の為に。
願わくば、毛利の未来を願う主君の為に。

だが、それは驕った考えなのかも知れない。
鐘は誰かの為に鳴るものではない。
それは生きとし生ける全てのものに等しく響き渡る。



「言うまでもなき事よ」

そう吐き捨てた元就は僅かに口元を緩めた。そして、窓辺に映る広大な毛利の土地を真っ直ぐに見据えた。
そこは中国、安芸。己の統治すべき地。終生護り続けるだろう地。そして、己の生きる土地が視界に広がる。



誰が為に鐘は鳴るか


ゆえに問うなかれ 誰がために鐘は鳴るやと そは汝がために鳴るなれば




BASARA3に日輪の申し子が参戦と聞いて思わず執筆。
太秦映画村のトークショーで聞いた「以前より頑なになられた」の一言から妄想
たまにはこんな弱気な時期があっても良いと思うんだ・・・・!

2010年4月以前 脱稿