紅い花が散った――あかいアカい花。

目の前で崩れ落ちる姿に息が詰まって言葉にならなかった。

ただ、世界が、闇に――堕ちていく。ふかく、フカく、深く。





「退いてよ・・・っ!」

焦燥に駆られた声を発して、は目の前に佇む忍びを鋭く見据えた。臨戦態勢で若草色の扇を構える。
が主君の元に戻る事を阻む様に立塞がるその忍は今は親しい相手ではない。の道を阻む敵だ。
ほんの刹那の時間を稼げればそれだけで構わない。一瞬の隙を突いて抜けたならばそれだけで良いのだ。

が、その一瞬を稼ぐにはあまりに分が悪い相手。


猿飛佐助――。

武田の誇る真田忍隊の長であり、優秀な甲賀の里出身の忍。にとって数少なき友人だと呼べる存在。
されども、今は群雄割拠、戦国時代。たとえ友であったとしても、一度戦場で見えたならばそれは敵である。
もう幾度となく佐助の相手をして来た。が、いつも佐助は本気を出さない儘にその場を立ち去り事を終えた。



「悪いけど、それは無理な話だな」

俺様も仕事だから。

そうおどけた様に笑って、佐助は改めて武器を構え直しながらを見据えた。侮っているわけではない。
風のばさら者であるのその実力は主君である毛利元就の傍らで戦っている姿を見て来たから分かる。
気を抜いたならば己も火傷程度で済まされない事は明白。未完成の力だからこそ、その底は計り知れない。

の力の根本には毛利元就への強い焦がれが在る。それは誰が見ても分かる程事実である。当り前だ。
彼女は決して毛利元就以外には仕えない。が唯一、主君だと認める相手は恐らく毛利元就だけだろう。
どこまでも真っ直ぐに、そして、迷うことなく元就に仕え続けるその姿は、忠誠心は。何と無く忍び似ていた。


「・・・・・・っ!」

おどけた態度とは裏腹に、はっきりと相手を威圧する佐助の覇気には攻撃するタイミングをあぐねた。
いうなれば佐助はプロの忍である。全くといって良い程、攻撃に転じられる隙が見当たらない。どう動くのか。
時間が無いというのに。元就がそう簡単に倒されるとは思っていない。しかし、万が一が無いとも言えない。

その、万に一つが怖ろしいのだ――。

相手は武田の若虎、真田幸村。積み重ねた功が明らかに違う。故に、元就が負けることなどあり得ない筈。
そうにも関わらず、何故こうも焦りが生まれるのか。いっそ、杞憂であれば良い。否、そうあって当たり前だ。
自分の主君は誰だ。彼の中国の覇者、安芸を治める日輪の申し子、詭計智将と呼ばれる毛利元就なのだ。


(・・・ありえない)

首を横に振る

毛利の勝利は分かり切った事実。なのに、何故こうも慄き不安を抱いて拭えないのか、それは弱さである。
振り払うようには首を横に振って、改めてその常盤色の瞳を佐助に向けた。強い感情を孕んだ双眸だ。
怜悧な光を宿したその瞳に曇りの色は無く、佐助は一瞬、純粋にその目が綺麗だなと場違いな事を考える。

恐らく、己の信じる存在が在り続ける限りこの瞳が曇る事は決してないのだろう。確固たる信念が存在する。
その信念を砕くのは途方も無い――終わらない絶望。否、彼女ならばその闇でさえも退けられるだろうか。
先は分からない。もしも、が深い闇に囚われるとするならば、それは間違いなく毛利元就の喪失だろう。

――それは諸刃の剣だ。





(・・・これが、中国の覇者・・・これが、詭計智将、毛利元就殿・・・!)

容赦無い輪刀の猛攻を耐え凌ぎながら思う

敵ながらにその力は流石だと心から感服した。幸村とて伊達に諸国の武将と渡り合ってきたわけではない。
相手の実力は見えて刀を交え、その覇気を身に受けたなら自ずと分かる。中国の覇者の覇気は凄まじい。
その一撃一撃の攻撃が重く心の臓にまで振動が伝わって来る。気を抜いたなら、致命傷は免れないだろう。


その華奢で細身のどこからこれほどの力を出しているのだろうか見当がつかない。凄まじい攻撃力である。
そうかと思えば。輪刀の神髄と呼べる円を描き相手の攻撃を受け流す柔軟性のある動きに手古摺らされる。
その武器は近距離だが、光を操る毛利元就には距離など苦ではないらしい。むしろ技を当てる絶好の好機。

ならばいっそこっちから距離を縮めるかと試してみれば何のその。二つに分かれた輪刀で吹き飛ばされる。
流石は詭計智将と言うべきだろうか。戦い方も計算し尽くされている。その死角が一向に見当たらないのだ。
決して攻め急いでるわけでないが、こうも綺麗に交わされると若さ故の意地が出たとしても可笑しくは無い。


「そなた・・・猪突猛進に仕掛けるしか能が無いのか?」

侮蔑――というわけではない。だが、その言葉は単調で感情の色が一切窺う事が出来ない。正に氷の面。
その字の通り毛利元就という男は冷たい印象を受ける。言動のひとつひとつからそれは察する事が出来た。
しかしただ淡白なだけではない。その攻撃を受けて気付いたのは熱く激しい部分も持ち合わせている事だ。

毛利元就は安芸を始めたとした中国を治める者。そして詭計智将と名高い。数少ない友である呉葉の主君。
真新しい記憶の中に浮かんだのは、武田の進撃により主君とはぐれたの姿である。初めて見た顔だ。
あれが毛利元就に仕えるの顔。おそらく、今は佐助が相手しているのだろう。手間取っているらしい。
時間が経てども追い付かない事が証明だ。本来ならば早々に主君の毛利元就の元に戻って来ている筈だ。

それがまだ、戻ってこない。


「・・・っなんの、まだまだこれからでござる!貴公も本気で参られよ!!」

重く圧し掛かる輪刀での攻撃を退けて、体制を整えながら幸村は言い放った。熱く猛るとはこの事だろうか。
好敵手である伊達政宗との戦いとはまた違う感覚。年の功が見せるその力量差に自然と高揚感が昂ぶる。
この戦いはきっと己の成長の手助けとなるだろう。その予感を幸村は確かに確信していた。「愚かな」。呟く。


(・・・武田の忍はそれほど手強いという事か)

幸村の攻撃を受け流しながら思う

が武将と見えて勝利を得られるとは思わない。それは先の戦いで立証されている。されども弱くも無い。
しかしそのが未だ戻らないという事は、相手の忍も相当の手練だという事。少々荷が重かったのだろう。
しかし無様な傷を負って舞い戻るという事もあり得ない。信じるなどと妄言は吐かない。それが真実なのだ。

――気にせずとも、今には戻る。





「・・・・・・?」

弾かれたようには顔を上げた。今、名前を呼ばれた気がしたのだ。あり得ない事だとは分かっている。
されども、確かにの耳にはその声が届いたのだ。自分の名を呼ぶ誰かの声が――思わず首を捻った。
しかしながら、今は交戦中だ。余所に気を向けている余裕などある筈が無い。改めては扇を構え直す。

――が。


キンッ

武器と武器が衝突する



「・・・くっ!」 「ちょっと、いくらなんでも余所見は酷いんじゃない?」

一瞬の隙を突いて抜けようとしたを逃がす筈もなく、佐助が攻撃を仕掛ける。牽制を破ったのは
その攻撃を扇で受け止めて思わず一歩下がる。先に進む為には否応でもこの忍を倒さねばならないのか。
真に厄介な相手。しかし、今はそれよりも妙な感覚が気に掛って仕方が無い。大丈夫だとは分かっている。

しかし、不安が拭えない。


「退け」。互いに距離を戻した後、は冷たく吐き捨てた。纏う空気が先程よりも明らかに違うのが分かる。
佐助を見据えるその常盤色の瞳はどこまでも冷たい。普段の穏やかな印象からは想像だにしない表情だ。
それほどまでに主君である元就が大切なのか。佐助は小さく息吐き己の主が戦っているだろう方角を見た。

此度の戦は殲滅が目的ではない。あくまで牽制の意を込めた戦だ。となれば敵武将を討つ必要性は無い。
それになんだかんだで甘い幸村のことである。おそらく、毛利元就を追い詰めたところで討つ事はできまい。
しかし、それはに取って関係ない事だ。主君の傍に在るべき存在としては、現状は許し難いものだろう。


「俺様も大将の命令に背くわけにはいかないのよ」

何が理由かは知らないが、空気を変えたは恐らく本気だ。が、かと言って、はいそうですかと通せない。
おそらく幸村はこの一騎打ちに高揚を覚えている筈だ。その邪魔は出来ないし佐助自身もそれをさせない。
相変わらずおどけた態度を崩そうとしない佐助。しかし、その瞳に潜む獣は隠せていない。彼もまた本気だ。

「・・・・・・言葉を交わすだけ無駄、か」

先程までの硬直状態を先に解いたのは。溜息混じりに発した言葉は調子に比べて冷たい響きだった。
佐助を真っ直ぐに見据えると、愛武器である若草色の小さな扇子を振るう。それがから攻撃の合図だ。
その扇は小さいからとはいえ馬鹿に出来ない。幾重にも繰り出される風の刃は鋭くて速い。紙一重で回避。

「あれまぁ・・・珍しく熱くなっちゃって」

からからと笑って佐助はを煽る様にそう言葉を紡いだ。そして、己の武器を構え直して攻撃へと転じた。
一気に距離を詰める事はせず追い詰める様にじりじりと距離を縮めていく。接近戦はの不得意分野だ。
しかし、不得意であるのはあくまで初めて手合わせした頃の話だ。今はもうその対処法を身に付けている。

「別に熱くなんてなってないよ。ただ・・・面倒事は嫌いなんだ」

そんなに毛利元就が大事か?と何時かに聞いた様な問いには答えずは佐助の攻撃を受け流し言う。
小さく微笑んだかと思いきや、思いっ切り押し返されると同時に大きな風の波動を喰らう。直撃したら拙い。
風のばさらを操るの攻撃は鋭くて速い。一撃一撃が小さいとは言えど、直撃したらかなりの致命傷だ。

その戦闘技術は毛利で培われたものだ。


穏やかに微笑む姿はどう見ても普通の女子。柔らかな物腰は彼女が年頃の女人である事を顕著に示した。
されども一度戦場に立ったならばそれは激変する。穏やかに微笑むその姿は変わらずとも纏う空気が違う。
敵と認識する相手を見据えるその瞳はどこか冷たく、そして唯前を見据えるだけの姿は惹かれる。綺麗だ。

を見据えるのは前では無い。視線の先に存在する主君の背中を見つめる。毛利元就は絶対的な光だ。
唯一にして絶対の光を護りたいが故には女人として護られるだけの幸福を放棄して戦う道を選択した。
変わった女だと切実に思う。自ら平和で安穏とした在るべき立場を放棄する女なんて理解に苦しむばかり。

そうまでして護りたい存在なのか――毛利元就は。

ほんの一瞬とはいえども隙が出来た。その佐助の横を抜いて速度を緩めることなくは元就の元へ走る。
この言い知れぬ不安を拭い去るには元就の無事を確認する他ない。きっと大丈夫だ。元就様はきっと無事。
そもそも心配する方が間違っている。あの方は毛利軍の総大将であり中国の覇者。心配など必要が無い。

だから――





捉えた緑の戦装。

安堵が広がり、その名を呼ぼうとした。


が、


「も・・・となり・・・さ・・・ま・・・?」


その光景を目の当たりにした瞬間、息が詰まった。

視界が黒白に染まる。



「!!」


目の前で倒れているのは誰?そして、その傍に佇むのは?

これは夢か?きっと悪夢だ。


だって、


「元就様・・・っ!!」


だって、そうじゃないとおかしいじゃないか。

だって、どうして、なんで――何故、元就様が倒れているの?



ど う し て ・ ・ ・ ?




・・・」


驚いた風にこちらを振り返ったのは紅い鎧を纏う男。

知ってる。  この色を 私は  知っているんだ。



「・・・キミ、が?」


乾いた声が 零れ落ちる。  アカい。   どうして?

どうして――紅いんだ。 どうして。  


何で幸村が立っているのに。   その返り血は誰のもの?

ねえ何で? 元就様は倒れたままなんだ。


どうして――・・・・





「やめよ、佐助!!」

弾かれた様に幸村に向かって攻撃を仕掛けたを止めるべく、追い付いた佐助が攻撃に転じようとする。
しかし、それを鋭い声で幸村が一喝して止めた。の攻撃は幸村には届かなかった。寸前で止まった腕。
ゆっくりと視線を落とすとその小柄な体はただ小刻みに震えていた。幸村を見据えるその瞳が揺れていた。

「・・・ど・・・・・・して・・・・・・」

まるで羽虫の様な声で紡がれた声は酷く弱々しい。攻撃も出来ないでゆるゆると腕を降ろすと距離を保つ。
ふらふらとした足取りで元就に近付くと、ストンと地面に座り込んで微塵も動かない元就の体を抱き上げた。
まだそこに温もりだけは存在するというのに、目を閉した儘で元就が言葉を返す事は無い。どうしてなのだ。



『元就様・・・・・・。』


消え入りそうな小さなちいさな呟き。亡き骸を抱きすくめて、幼子が親を求める様に幾度もその名前を呼ぶ。
しかし、その声に彼女の主君が応えることはない。ただ、眠っているかのように瞳を閉ざした儘そこに在る。

――もう、目覚める事は無いのだ。



わかってる。

分かってるんだ。 そんな簡単なこと。

しっている。

知っているんだ。 そんな当然のこと。


だけどね、どうしてだろう。そんな当り前で簡単な事、誰よりも自分が理解している筈なのに。どうしてだろう。
認めたくない、受け入れたくない。どれほど頭で理解していても、心がごねるばかり。いやなんだ。嫌なんだ。


「・・・つめたいよ・・・・・・元就、様」

元々白い頬に手を滑らせて何度も愛おしそうに撫でる。開かないその双眸。透明の雫がの頬を伝った。
ただ名前を呼んで欲しい。あの声でもう一度、命令を下して欲しい。なんども何度も。そして――そしてただ。


ただ、


世界が闇に   おちて

オチて

堕ちていく。 フカく、深く。




悪夢なら覚めてと願った。

2010年4月以前 脱稿