2010年4月以前 脱稿
豊臣の最盛期と言われた頃、息を潜め凌いだ毛利は今や大国となった。再び戦乱の世となった今は脅威。
天下分け目の争いを前に牽制の意を込めて、武田が挙兵。それを迎え撃つべく大将を筆頭に兵を挙げた。
若草色の戦装を纏って陣地に構えた智将毛利元就の直ぐ傍らには見慣れた光景であるがが控える。
「これより武田を迎え撃つ」
感情の色を読ませない響き。静かに、しかし、どこか昂ぶりを覚えるその声に毛利の兵らは歓声を挙げた。
長き沈黙を経た今、毛利の敗戦は無いという自信は誰の胸にもあった。故に兵らは大将の声に一気に沸く。
「・・・・・・」
その威勢の良い歓声に耳を傾けながら、は己の主君である毛利元就の背中を見つめる。負けは無い。
毛利には毛利元就という絶対的な光が居るのだ。日輪の申し子が。そして、その光を護る為に戦い続ける。
「」
不意に名を呼ばれてはゆっくりを顔をあげた。淡白な声調だがその低くて静かな響きが心地良く思う。
伏せられていた瞼をゆっくりと持ち上げその人を見据える。氷の面と呼ばれるそれがほんの僅かに崩れた。
「はい、元就様」
己の名を呼ぶその声に自然と頬が緩みそうになる。重鎮達の前で奴隷風情が大将に微笑みかけられない。
故に、緩みかけた表情を締め直して言葉を返した。気を利かせた執政が重鎮達を引き連れて席を離れた。
二人きりになったところで居心地が悪くなるような短い時間を過ごしていない。沈黙もまた心の平穏を招く。
暫らくの間、沈黙したままであった元就が不意に視線をあげた。真っ直ぐにを見つめる琥珀色の双眸。
強い感情を孕んでいるわけではないが、その瞳に宿す光はあまりに眩くて目を合わせ続ける事が怖ろしい。
否、怖いというよりかは不思議な感覚に陥りそうになる。それが安堵なのか、不安なのかはよく分からない。
「此度の戦、牽制を兼ねた小競り合いに過ぎぬ」
されど、と、元就は言葉を続けた。彼にしては珍しくどこか歯切れの悪い言葉には自然と首を傾げた。
何を思案しているのか詭計智将と呼ばれる彼の思惑などたかが奴隷風情に読める筈も無い。分からない。
続く言葉が紡がれるのを唯待つ。元就は決して不要な言葉は言わない。在るのは最低限必要な言葉だけ。
「はい」
そっと小さく短く頷き返せばスッと元就は視線を逸らした。その瞳が遠くにぼんやりと映る地平線を捉えた。
その怜悧な横顔を見つめながら考える。元就様は一体何を見据えているのだろうか。毛利の勝利なのか。
おそらく・・・否、きっとそうだろう。智将の心眼が捉えるものは毛利の勝利する姿に他ならない。きっと勝つ。
「油断は許さぬ」
心せよ、と、元就は叩きつけるように言い放った。淡白だがそれに対して不快感を覚える事は殆ど無かった。
叩きつける様な冷たい言葉の裏に元就の本来の優しさが含まれている事をは知っているからである。
元就の言葉に自然と笑みが漏れる。だが、きっと振り返った元就にそれを見られると機嫌を損ねる事だろう。
「御意」
口を固く結び直して唯一言、そう返答する。元就はそんなを一瞥した後、外で待つ執政を呼び入れた。
暫らくの間を置いて執政は室内に足を踏み入れた。志道が見たのは外を見る主君と傍に控える彼の奴隷。
に視線を向けたならば、彼女はこちらに視線を向けて僅かに表情を緩めた。そして、小さく頭を下げる。
(・・・まったく、この方々は)
思わず苦笑が浮かんだ
だが、この二人はこれで良いのかも知れない
元就はに対して奴隷と称する割には破格であろう扱いをしている。いつであったか誰かが言っていた。
は毛利元就の妻である妙玖――美伊様によく似ている、と。それ故に元就の寵愛を受けているのだと。
それはの立場を妬む者の嘲りの言葉だ。しかし、呉葉はそれを否定しないし不快だとも思わなかった。
仮に今は亡き美伊の身代わりだとしても元就が受け入れている事が嬉しい。否、傍に居られる事が嬉しい。
にとって毛利元就は仕えるべき主君であると同時に掛け替えの無い光なのだ。潰える事の無い光明。
むしろ、潰えるような事があってはならない。その強き光を護る為には己が存在するのだと思っている。
――この身の存在意義は元就だ。
遂に武田と毛利の戦が火蓋を切った。毛利陣営内で大将として待ち構える元就の耳に様々な報せが届く。
現在、武田の総大将である真田幸村は怒涛の勢いで兵を退け此方に向かっているとの事。相変わらずだ。
あくまであちらも牽制だけの意なのか、立ちはだかる毛利軍の兵らを薙ぎ倒して突き進んでいるそうである。
姿は確認されていないらしいが、恐らくその傍らには彼の優秀な忍びが付いているのだろう。接近している。
は無表情にその報せを聞く元就にちらりと目を向けた。この状況をどういう風に考えているのだろうか。
決して劣勢というわけではない。否、兵らが倒されてこちらに近付いているという事は劣勢と考えるべきか。
だが、
まだ兵らの誰も命を失っていない。そう考えたならばこの戦は劣勢では無い。相手の手加減というのもある。
されども、仮に全ての兵らを薙ぎ倒してこの場所に辿り付いたところで陣営には総大将の毛利元就が居る。
(・・・この戦は勝てないよ、幸村)
目の前には居ない友に心の中で呟く
若き虎、日本一の兵と言われたとしても、この西国の地、中国を治める安芸の日輪の申し子には敵うまい。
時には翁人の如く狡猾で冷淡な策を講じる元就に勝るには、幸村はまだ若過ぎる。押しだけでは勝てない。
勿論、例え相手が友であろうとも戦場で見えたならばそれは敵である。そう簡単に主君の元へいかせない。
元就の盾である事を誓ったのだ。主君の前に立ちはだかる者が居るのならば自分はその相手を倒すだけ。
例え勝機の見えない相手であろうとも、この身が痛み朽ち果てようとも倒れたりはしない。ただ立ち続ける。
地面に伏すなんて無様な真似を元就の前でしたくない。仮に許されたとしてもそれは己の誇りが許さない。
「」 「はい、元就様」
不意に元就が呉葉の名を呼んだ。そっと顔を上げると、元就が冷淡な表情のままで呉葉を見下ろしていた。
恭しく頭を垂れて元就に言葉を返す。「顔を上げよ」と、元就が淡白にそう言い放つのを合図に顔を上げた。
「貴様は我が奴隷・・・手駒風情が死して手を煩わす事は許さぬ」
そう発せられたその言葉に思わず耳を疑った。よもやその口から生きる事を示唆する言葉が出て来るとは。
驚きを隠せない侭、は目を丸くして元就を凝視する。だが元就はその言葉だけを告げると顔を背けた。
たった一言。その一言だけで胸が熱くなった。一瞬で色んな感情が入り混じり交錯して胸を支配するのだ。
「・・・畏まりました」
動揺したこの心を悟られたくは無くて、表情を押し隠す様にして頭を垂れた。「行け」と、短く命令を下される。
「御意」、と、これまた短く返答する。命令をわざわざ口に出されるまでも無い。成すべきは必要な時間稼ぎ。
主君の期待に添えられるかは分からないが、己に出来る事は今のところこれだけしかない。なら成すだけ。
故に、全身全霊で立ちはだかろう。
だが、命だけは落とさない。
「武田の若き虎、真田幸村殿とお見受けします」
「殿・・・」小さく呟いた紅い鎧を纏った武士。真田幸村の言葉を断ち切る様に妖艶に微笑みそう告げた。
紡がれた言葉は、声は、どこまでも落ち着いた声調。しかしそれは、幸村の心に波紋を描いただけである。
幸村とて割り切る場所は心得ている。そうでなければこれまで武士として戦場を駆け回る事は出来なかった。
「此度の戦は血を流す事が目的ではない。毛利元就公と見えたい!」
暗にそこを退けと幸村は告げる。その双眸には幸村のばさらと同じ紅蓮の色が揺れていた。紅蓮の紅き炎。
はその瞳が嫌いではない。強い意志を宿していて、とても綺麗だと思う。その強さに憧れを抱きもする。
だが、
「生憎、我が主は貴殿に申す事は無いとのこと」
通すわけにはいかない。たとえそれが友である幸村だとて。一度戦場で見えたならばそれは敵でしかない。
戦という形で仕掛けてきた以上、無血の戦などはあり得ないのだ。だからこそ、元就と見えるなど以ての外。
主君をわざわざ危険に晒すなどあってはならない事だ。否、あの方はこれしきを危険と言わないだろうけど。
「・・・某には話があり申す」
武将では無い。ましてや、戦忍ですらない呉葉。そうでありながら、戦場に出て来る友人の姿に目を細めた。
それこそがの選んだ道だとは知っている。だが、理解は出来たとしても納得いかない部分は存在する。
何故だと、幸村は幾度も言葉にしかけた。辛うじてしなかったのは、その言葉が無駄だと知っていたからだ。
は主君である毛利元就に対して絶対的な忠誠を誓っている。元就を護ることがにとっての全てだ。
だからこそ幸村の言葉はには通らない。友として戦場から退くことを示唆したとしてもそれを受けない。
今までは戦場で会わない様にする事で済んだが、こうして見えた以上はそうもいかない。通しては貰えない。
「どうかお引き取りを」
我が主が貴殿と見える事はありません。
友と戦いを交える事に躊躇う幸村は二槍を強く握り締めた。その気持ちを知らずか、静かに響き渡る言葉。
退く気の無い幸村と通すつもりの無いが見えたならば行き着く先は一つ。意見の不一致である以上は。
「!!」
ヒュッと空を切る音が響くとほぼ同時に幸村が動いた。が扇を振り下ろすより先に二槍で打ち込んだ。
それで弾けるだろうと思っていたがどうやら甘かった。押してはいるものの、扇を飛ばすまでには至らない。
今まで、戦場でと戦いを交える事が躊躇われ、嫌で避けて来た。思えば初めての衝突かも知れない。
武器の交えた事のある佐助から聞いた話では、多少の粗はあれども戦い方を知る娘であると聞かされた。
確かにその通りだ。男女の力の差は勿論存在するが、まだ本気を出してないとはいえど幸村と同等に戦う。
彼女の構える武器は幸村のそれよりもずっと小さい。若草色の小さな扇子。質素だが高級な品だと分かる。
はそれを自在に操る。
その扇で他者を屠った事はあるのだろうか。人の命を奪った事が、自分の様に奪った事があるのだろうか。
は微笑んでいるのだろうか。否、常盤色の瞳はどこか冷たい光を宿している。何を思っているのだろう。
きっと、このまま武器を交えたならば、少なからず呉葉を傷付ける事になる筈。それを幸村は酷く躊躇った。
「退かれよ・・・っ・・・殿!!」
押さず押されずの状態のまま硬直状態に突入してどれ程の時間が経過しただろうか。幸村が言い放った。
持久戦に持ち込んだならば不利になるのは言わずもがなの方である。じゃりっと砂を躙る音が響いた。
今まで拮抗していた力が一瞬にして消える。しまったと、ハッとして後方に飛ぶ幸村の頬を風の刃が掠める。
「・・・それは出来ない。退くのは幸村、きみの方だ」
辛うじてその攻撃を回避した幸村が顔を上げた。そこには扇子を構えてこちらを見据えるの姿が在る。
周囲をひと紡ぎの風が渦巻いた。ふわふわと風が彼女の柔らかい黒髪を揺らした。これがのばさらだ。
幾度となく毛利元就に連れられて戦場に立った。そしてずっとと彼女の主君を護り続けて来た風。
――風のバサラ・・・。
「毛利元就が僕、。全力でお相手しましょう」
不意にその風がどっと強く吹き荒ぶ。それらはまるでの心情に強く同調して吹き荒んでいる様である。
風を操作する根本にはの手元の扇である事は明白である。だが、そこまで近付くのには骨が折れる。
毛利元就と見える前に深手を負うわけにはいかない。とはいえども、完全に止めるならば方法は一つだけ。
「なれば・・・それに応えるが礼儀。真田源二郎幸村!全力でお相手致す!」
軽やかな手付きで二槍を回して構え直した幸村が勇ましく吼えた。その瞳には先程までの迷いの色は無い。
真っ直ぐに敵であるを見据えるその双眸は鋭く、そして紅蓮の炎を燻らせている。とても強い瞳だった。
果たして本気を出した幸村を自分風情ではどこまで凌げるのだろうか。長時間の時間稼ぎは無理に等しい。
否、できるか、ではなくて、やるのだ。
あの強くも孤高である光を護りたい。護るのだとそう心に誓ったのはだ。己の風が光を守護するのだ。
この風はその為に在る。だからこそ光を蝕もうとするこの炎を今食い止める。与えられたこの能力を持って。
炎を纏った幸村が果敢に突っ込んで来るのを迎え撃つ為に見据える。視界の片隅で僅かに光が点滅した。
は僅かに口角を吊り上げて頬を緩めた。準備は整った。後は毛利元就が望むだけの働きをするのみ。