あれから程無くしては隆元と別れた後に隆景の陣屋へと足を運んだ。わざわざ探しにまで訪れたのだ。
何らかの用があったのだろう。大方、話し相手に付き合えという事なのだろう。そうして呼び出されるのも常。
隆景の陣屋は小早川軍の中にある為、幾ら毛利の友軍と言えども色が違う。故にの存在は目立った。

――向けられる奇異の視線に居心地の悪さを覚える。


(気になるなら案内してくれても良いのに・・・)

内心 愚痴る

先程から奇異の目を向ける事はあれど誰も用件を尋ねたり、案内しようとする殊勝な心掛けの者が居ない。
(・・・紳士じゃない)と、内心思うが彼等は少なくとも紳士ではなく武士なのだから仕方無いのかも知れない。


「どうかしましたか?さん」

不意に背後から軽く肩を叩かれた。続く声。気配の一つも感じなかったのもあり反射的に扇に手を掛けた。
が、振り返った先の人物を見て平静を取り戻す。全く紛らわしい話し掛け方をしないで欲しいと切実に思う。
誤って攻撃を仕掛けられても文句は言えない様に思う。そもそも気配を消し立つなんて悪趣味この上ない。

「天海殿でしたか・・・何か御用でしたか?」

天海の姿を視界に捉えは肩を竦めて言葉を紡ぐ。嫌悪感は表には出さないが気分はあまり良く無い。
それを堪えて笑顔を取り繕って用件を尋ねた。先刻、医療用の陣屋で会ったところなのに対面するなんて。

どこから連れて来たのかは知らないが秀秋が招いた客人だ。流石に無礼な態度を取るわけにもいかない。
しかしは根本的にこの男を好く事が出来なかった。常に笑みを浮かべているが笑っていると思えない。
ある種の禍々しさすら感じる天海を慈悲深い僧侶だとは到底思えなかった。不気味且つ薄気味悪い存在。

――それがにとっての天海の印象だった。


「いえ、特には。貴女の後ろ姿が見えたので声を掛けただけですよ」

秀秋さんをお探しですか?と、尋ねられて首を横に振り「隆元様の陣屋をさがしているのですが」と、答えた。
小早川の陣屋が多過ぎてどこか分からない。あまり遅れては隆元の機嫌を損ねてしまう。肩を竦めて苦笑。
すると案の定「あちらですよ」と、天海は隆元の陣屋の方向を指した。「恐れ入ります」と、短く感謝を述べる。

「それではこれで・・・「折角ですからお送りしますよ」」

と、その場を立ち去ろうとしたが呼び止められる。嫌な予感はしたが呼ばれた以上は足を止めざる得ない。
天海と場を共有したくないというのが本音。しかしその申し出を蔑ろには出来ず内心小さく溜息を漏らした。
二度目の感謝の言葉を述べて隣を歩く天海をなるべく視界に映さないようにしながら隆元の陣屋に向かう。

きっと隆元は機嫌を損ねる。果たして天海は己が隆元から酷く嫌悪されている事を理解しているのだろうか。
秀秋から客人だと紹介されたその日に隆元は酷く不快そうにの部屋を訪れ愚痴たのは真新しい記憶。
あまり他人に関心を示さない隆元が珍しく酷く嫌悪の色を示した。恐らく隆元も天海から何かを感じたのだ。



さんは・・・何故、元就公に仕えているのですか?」

沈黙のまま歩みを進めていたが不意に天海がそう話題を振った。突然の言葉に暫く瞬いて視線を向ける。
改まって理由なんてものを考えた事は無い。むしろ理由は無い。最初は成り行きだった、それだけだった。

「・・・唐突ですね。どうしてなんて考えた事がありません」

気付けばそれが当たり前になっていた。今更元就以外の誰かに仕えるなんて事は考えられないし無理だ。
それだけは断言出来るがそれ以外は答えを持たない。ふわりと誤魔化す様に微笑んで呉葉はそう答えた。
唯一つ言えるのはその理由が恋慕でないという事だけ。そんな俗世染みた感情で仕えているのではない。

「そうですか・・・では仮に、元就公に万が一があったとしたなら?」

その言葉に一瞬、息が詰まった。予想だにしなかった言葉だったからなのか。「それは、」吐き出す様に呟く。
続きの言葉を口にしようとしたが出て来ない。天海の質問の意図が分からない。意図を探る様に見据える。
同時に少なからず自分が動揺を覚えている事に気付いた。それはあくまで仮定の話に過ぎないというのに。

世は乱世。そこかしこで戦が起こりその度人は死ぬ。兵である以上、も含め死は身近に存在するもの。
考えた事が無いわけではなかった。武将であり国主であって、兵を統べる立場の元就はまず首を狙われる。
命の危険に晒されているのは一兵卒の呉葉以上である。万が一は決してあり得ないと言い切れなかった。

――だがそれを考えたところで何になると言うのか。


しかし思考は天海の言葉に従い勝手に思案する。元就が居ない世界を想像した一瞬、黒く蠢く闇が迫った。
息が詰まるようなそれに呉葉は慌てて小さく頭を振った。刹那の事とは言え、世界が一瞬にして色を失った。
瞬間の感情は言葉に表現できない。恐怖とも絶望とも悲哀とも呼べない。無色だった。何も見えなくなった。

不意にくすくすと笑う声が聞こえて視線を向けた。反応を伺っていたのか天海の口元が可笑しそうに歪む。
笑ってなどいなかった。この男は嗤っていたのだ。言葉に踊らされて一瞬とはいえそれを想像した呉葉を。
試されていたのだ。途端に不快感が込み上げる。天海が秀秋の客人で無ければ、一兵卒であったならば。

きっと――は天海に手を上げていた。


「・・・言葉は慎重に選ばれるべきかと」

平静を装いそう吐き捨てる。しかし、天海を見据えるその双眸は侮蔑を含んだ冷ややかな色を宿していた。
討死の可能性を示唆する発言は不謹慎極まりない。万が一などあり得ない。否、決してあってはならない。
それを忌避する為に自分が存在するのだとは思っている。将を生かす為に一兵卒が存在するのだと。

「こわいこわい・・・・・・たとえばの話ですよさん」

「貴女はどうしますか?」と、可笑しそうに嗤いながら天海が再び問う。その口を閉じろと、怒鳴りたくなった。
隠れた場所で拳を固く握った。「・・・くだらない」と、小さく呟いた。募る苛立ちは天海に対してだけではない。
一瞬でも天海の言葉に惑った自分が愚かしくて腹立たしい。「おや」と、天海が好奇に満ちた視線を向けた。

「天海殿・・・「たとえばなんて存在しない」・・・隆景様・・・?」

言葉を紡ごうとした呉葉に重ねて第三者の声が響く。耳によく馴染むその単調な声には小さく呟いた。
そこに居たのは無表情に天海を見据える隆景の姿。が、一瞥しただけで直ぐに「遅いよ」と、呉葉に言った。
「申し訳ございません・・・迷ってしまいまして」。どうやら迎えに行こうとしてたらしい。苦笑を浮かべて答える。

「別に。・・・いくよ」

この広い陣の中だ。それに似たような陣屋がたくさん並んでいるのだからその可能性はあると思っていた。
予想通りの返答に隆景は天海の手前、表情を崩すことなく淡々と言葉を返す。一刻も早くこの場を去りたい。

天海を酷く毛嫌いしている隆景にとってほんの少しとはいえ場を共有するのは不快で我慢のならない事だ。
の腕を引いて陣屋に入ろうとした隆景だったが思い出したように足を止めて、天海の方に向き直った。
「そうだ・・・ひとつだけ」と、どこか演技がかった口調で口を開く。珍しくもに向ける様な笑みを浮かべて。


「父様がを置いていくなんて有り得ないから」

くだらない戯言は二度と口にするな。と、先程までと一転しその目は冷やかに侮蔑を孕み天海を見据える。
吐き捨てられた言葉は酷く冷たく下手をすれば「不愉快だ」と、本音すら乗せてしまいそうな程に刺々しい。
隆景は踵を返して今度こその腕を引き陣屋の中に消えていく。決して天海を振り返る事はしなかった。
その二つの背中を見送って一人になると、天海は口元を歪ませながら嗤った。これは想像以上の収穫だ。



何となくだが嫌な予感を覚えて外に出て見たら案の定だ。が天海と共にこちらに歩いてくるではないか。
天海の姿が視界に映るだけでもうんざりする。否、不快感が込み上げる。だがそれだけならまだマシだった。
二人が話していたのは遠目でも分かる。次第に聞こえてくる話題とその瞬間に見せた表情が忘れられない。
きっとは自覚してない。していないからこそ無防備にもあんな表情を見せたのだ。あんな泣きそうな顔。


「どうかなさいましたか?隆景様」

天海と離れて少し落ち着いたのか見上げる様にして見たはいつもと同様に穏やかな笑みを浮かべる。
陣屋に入りいつもの調子で膝枕を要求した隆景に応えて膝を貸しただったが時折その空気が揺れた。
それが動揺か苛立ちなのかは分からない。しかし少なくとも表向きは装えても纏った空気は隠せていない。

「・・・もう一回言って」

唐突に隆景がそう言った。だが何を言えというのか主語が足らない。困った様には肩を竦めにが笑う。
普通に考えれば「どうかなさいましたか?」のくだりだと思う。が、隆景の反応を見る限りその言葉では無い。
「ねえ」と、呼び掛けられて視線を持ち上げると隆景と目が合った。「おかえり・・・って」と、そう言葉が続いた。
そんな事かとはフッと表情を緩めた。もそうだった。それを強請るのに酷く遠回しな言い方をする。

「おかえりなさいませ隆景様」

手触りの良い髪を指で梳きながらその言葉を紡ぐ。自然と心温まるのを感じた。戻って来てくれて良かった。
世が世だからこそ、たった四文字のその言葉に妙に重みを感じる。言えた瞬間は心の底から安堵を覚えた。
髪を弄る感覚に瞑目し身を委ねていた隆景がその言葉に弾かれた様に開眼した。そしてを見つめる。

「・・・ただいま」

そしてはにかんだように小さく笑ってそう返した。そんな些細な遣り取りに安堵する。戻って来たと実感する。
隆景が甘えて来る事には慣れていたつもりだが不意打ちで向けられた笑みには一瞬、目を瞬かせた。
しかしそれも少しの間で次第に嬉しそうな顔を見せた。取り巻いていた空気も同時に少し和らいだ様に思う。

「御無事で何よりです」

先刻と同じ様な言葉が続いた。そして返った四文字にまた心が安堵する。まだ此処に居るのだと実感する。
それは一般的には当り前の事なのだと思う。だがはその当たり前が唐突に失われる事を知っていた。
あまりにも唐突で理不尽に奪われる。いつの世も哀しきかなそれが罷り通った。だからこそ大切に思った。

何度も心の中で感謝した。おかえりを言わせてくれてありがとう。ただいまと言ってくれてありがとう。・・・と。
「ありがとう」と、幾ら言葉にして言っても足りない。そして、いつも最後は今がずっと続く様にと切に願った。
この時代において人の夢ほど儚いものは無い。だからせめて願おうとする。願う事で未来を信じようとする。





不意に名を呼ばれて視線を落とす。隆景と目が合う。そして伸ばされたその手が微かにの頬に触れた。
向けられた琥珀色の瞳がもの言いたげに細められたのを見て首を傾げる。「どうかなさいました?」と、問う。

「隆景様・・・?」

隆景との対話によくある沈黙だが今日は多い気がした。続きを促すように名を呼ぶとゆっくり唇が動かした。
しかしながらには読唇術の心得は無くその言葉を理解する術は無い。再び小首を傾げて言葉を待つ。
昔から何か言いたげだが結局言わず終いというのはよくあった。が、ここ数年それが更に多くなった気がする。

頬に触れていた手が今度はの髪に触れる。呉葉の髪は手入れが行き届いており手障りがとても良い。
時折、仄かに鼻孔を掠めるのは部屋で焚かれている香の匂いが移ったからだ。決して強く無く安堵させる。
その香りに隆景は瞑目する。隆景は既に元服を終えた身で本来は女人であると密接すべきではない。

理解はしていた――だが、求めるのを止められなかった。

この距離をは果たしてどう考えているかは分からない。否、大方、弟が甘えている様な感覚なのだろう。
隆景とて最初はそのつもりだった。幼くして母を亡くした彼が甘えるのを許されたのは酷似していた呉葉だ。
きつく当たった事もある。我儘も言って困らせた事もある。しかしいつだって変わらずに隆景を慈しんだ。


――そんなに隆景が抱いたのは親愛だった。


それで満足していたしそれが当たり前の筈だったにも関わらず、それが変化したのはいつの事だっただろう。
今も表向きは弟のように接している。その立場を利用して隆景は誰よりも近くでの傍らに居座っていた。
与えられる愛情に安堵していた。それが変わったのは自分と父、元就に向ける愛情の形の差を知ったから。

きっと自身も気付いてない。だが端から見ていればその差は明白だった。気付かないのは当人達だけ。
向けられるものも、向けるものも、周囲とは全然違う。見せつけられたような気がした。明らかに色が違った。
愛されていたと思っていたのは幻想だった。否、間違いなくは愛してくれた。だがその形が違っただけ。
それを初めて理解した時、父に羨望した。だが時間が経つにつれそれは薄れて次第に強く想う様になった。

――愛したい、と。


こうして直ぐ近くで語らい、微笑むを。帰還を自分事のように喜んで「おかえり」と、迎えてくれる彼女を。
愛したいと想った。きっとはこの気持ちに気付かない。否、隆景も元より気付かせるつもりは無かった。

それでも構わない。

彼女が笑っていてくれるならばそれが一番良い。ただ、こうして傍に居て過ごす時間だけは壊れないで、と。
切に願った。きっとはいつか自分が見て見ぬふりをしている感情に気付く。きっと、父も気付くのだろう。
互いに背け切れなくなった時、どうなるか。ぼんやりとではあるが容易く想像がついた。きっと幸せになれる。


「・・・帰ってきたら必ず「おかえり」って言って」

いつもと変わらない単調な言葉。そして触れていた髪をほんの少しだけ強く引っ張る。いつか終焉は訪れる。
分かっているからこそ口にする。気持ちを伝えない代わりに少しくらいの我儘は許される筈なのだ。だから。

だから、


「そしたら・・・必ず此処に帰って来る」

向けられた琥珀色の双眸の真っ直ぐな事。錯覚する。一瞬、脳裏を過った姿には慌ててそれを払った。
目の前に居るのは隆景だ。「いつだって隆景様のおかえりをお待ちしてますよ」と、取り繕った様に微笑む。
その言葉に嘘は無い。いつだってどこだって。生きていてさえくれるならばずっとだって待ち続けていられる。
「・・・約束だよ」と、の言葉に隆景は先ほどよりも掴む力を緩めて呟く。その声はほぼ懇願に近かった。


(帰って来るから)(その声がする場所に)

だから――、


「何度でもおかえりって言って」




たとえそれが不毛な恋でも

2010年4月以前 脱稿