2010年4月以前 脱稿
「隆元様、失礼いたします」
声を掛けた後、隆元の返事を待っては陣屋に足を踏み入れた、そこで待つのは穏やかに微笑む隆元。
「殿!戻られたのですね」と、頬を緩めた隆元は手を止め中へと促す。小さく会釈して笑みを返す。
隆元は用意させていた椅子に座るようにと促す。堅い話ではなく呼んだのは茶飲み話がしたかっただけだ。
「怪我をしたと聞いて心配していたのですよ・・・」
そう言って穏やかに微笑む隆元はどこか機嫌が良い。尾崎局が懐妊して間も無く御子が生まれる予定だ。
部下を通して経過をさり気なく聞いていたのだろう。口元を綻ばせてこれから生まれる御子の話をしていた。
歓喜したのは何も隆元だけではない。初孫の報せを受けて口元を僅かに緩ませていた元就が脳裏を過る。
氷の面とまで呼ばれるあの毛利元就が初孫が誕生する報せを受けて喜ぶ顔など誰が想像できるだろうか。
期間で言えば10年にも満たない短い時間だが元就とは実りある時間を共有して来たとは自負している。
そんなの目から見ても元就は感情の起伏が乏しいとは思う。が、それはあくまで素直では無いだけだ。
不器用で素直では無くて、だからこそ他者から誤解を受ける。否、元就はそれを承知でその態度を貫いた。
そんな元就が隆元の口から尾崎局の懐妊の報せを受けた後、窓の外を眺めながら僅かに頬を緩め笑った。
「大事ありません。次の戦には間に合うかと」
思わずは頬を緩ませる。だが、心配そうに尋ねた隆元には気遣いは無用とばかりに言葉を返す。
正直、二日後の戦に間に合うかどうか怪しい。戦場で再び幸村をはじめとした武将とぶつかると危険だろう。
精々負けない様にするくらいが精一杯だろう。ただ間違っても元就の足手纏いにだけはなりたくないと思う。
「戦に間に合う間に合わないの話ではないでしょう?」
の言葉に一瞬眉を顰めた隆元は呆れた様に溜息を漏らして、まるで言い聞かせる様にに告げた。
彼女は戦になるといつもそう。自分の身を案じる事もせず元就の役に立つ事を優先するのだから困りもの。
戦えてもは女子。万が一、一生残る傷でも負ってしまったら。見ている側はいつもハラハラさせられる。
「お気遣いありがとうございます、隆元様」
咎める様に紡がれた隆元のその言葉には頬を緩めて僅かに微笑むと恭しく頭を下げて言葉を返した。
隆元は開き掛けた口を閉ざした。そして思わず溜息吐く。いつもこうだ。叱る気でいたのに殺がれてしまう。
おそらくに悪気は無いだろう。ただ、直向きに毛利元就を見つめているだけ。それだけに過ぎないのだ。
「・・・・・・まったく。貴女も父上に負けず劣らずの意固地になったよ」
父もその傍らに居続けるも本当に頑なだ。己の信念を貫いていると言えば聞こえは良いかも知れない。
だが、見ている側すれば冷や冷やする事この上ない。と、隆元が考え悩んだとて本人は変わらないのだが。
まったく困った友人を持ってしまったものだとにが笑う隆元に「そうですか?」と、穏やかに微笑んで答える。
「・・・ここを越えたら少し休ませて頂きますね」
では、と、言葉を切ってが言う。今は大事な局面であるから休む事は出来ない、と。が、信憑性は薄い。
そんな事を言いつつ、この局面が終わればまた次の命に追われて休むのが延ばし延ばしになるのだろう。
これが終わった後に、父である元就にに少しでも休息を取らせるようにと進言しようと隆元は決意する。
「またそんな事を言って・・・殿の勤勉さも困りものだな」
肩を竦めて冗談交じりにそう言うと、も僅かに肩を竦めて「御冗談を」と、言葉を返す。穏やかな時間だ。
そしてふと視線を陣屋の外の景色に向けた。脳裏を過るのは苦渋の顔で此方を見つめる幸村の顔だった。
毛利を離れて放浪していた頃に出会った大切な友である人――それが真田幸村だ。が、今は相対する者。
武将としての猛々しさを持ち合わせた甲斐の若虎。甲斐の虎、武田信玄が病床に伏した後に大将となった。
しかし武将に有るまじき性質も在る。幸村は根が優し過ぎるのだ。故にあの時も迷いと困惑の色を見せた。
は己の力を過信していない。だからこそ分かった。あの時、幸村が本気だったなら相手にならなかった。
友である呉葉と戦う事を迷ったからこそ此方にも余地が見えた。しかし次に見えればそうはいかないだろう。
(苦戦を強いられる・・・か・・・)
自嘲
否、苦戦どころではない。武将の真田幸村と見えれば話にならないのは一目瞭然だ。先の戦いで確信した。
とは言え、確信したからどうしたという話だが。相手にならずとも命令を受ければ自分は再び見えるだろう。
そこに勝機が無くともそれが与えられた命ならば――。
「戦場で旧友にでも会いましたか?」
不意に隆元に話し掛けられ意識を引き戻される。投げ掛けられた言葉は目を丸くし隆元を見つめた。
相変わらず穏やかに微笑んだ侭「そんな顔をしてる」と、彼は笑った。どうやら表に出てしまっていたらしい。
は困った風に苦笑を浮かべて肩を竦めた。言われて気付いたが、自分もまた戦う事を迷っているのだ。
「・・・弟も世話になっているとても縁のある人なんです」
ほんの少し迷ってしまう。が、その迷いは言葉に出来なかった。否、毛利家の次期当主に言うべきではない。
戦場で迷えば行き着くのは死だ。故にこの迷いは早々に消し去らねばならない。なのに消えてはくれない。
「・・・迷っているんですね。その方と再び、戦場にて戦うことを」
不意にその声調が下がった。まるで突き付けるように言葉をそれとなく区切って隆元が尋ねる。聡い人だ。
向けられた双眸は元就を連想させる琥珀色。しかし、その瞳は深い色は宿していても決して冷淡では無い。
しかし確かに窘める意も含まれているのは明確だった。その迷いはいつか自らをも殺しかねないのだから。
「情けない話だと分かっています・・・勿論、それが命であるならば刃を交えるつもりですが」
虚勢とも取れる言葉だった。命令として戦いを任ぜられたならばその時は戦う。否、戦わなければならない。
(戦わなければ・・・)目を伏せてそっと言い聞かせる。旧知の相手を前に迷うのは弱さだ。それでは守れない。
の脳裏を元就が過る。孤高に身を委ね戦いに身を投じる元就。その背を守りたいと願ったのはだ。
だから――
「・・・使命感と心は別物だよ殿」
その迷いを汲んで距離を縮めた隆元が無意識に膝上で握り締められたの拳をそっと包み込み告げる。
言い聞かせる様な優しい声調には息を詰めた。緩慢に視線を持ち上げると優しげに微笑む隆元の姿。
「隆元様・・・」
困惑が否めなかった。思わず呟いた名前に隆元はフッと息を吐き出し笑む。琥珀色の眼が優しげに細まる。
は元来優しい性根の娘だ。故に年も近く感性も似た隆元にとってその思考を理解するのは容易だった。
その迷いは嘗て隆元もまたぶつかったもの。家督を継ぐ者として迷いは許されなかったがそんな事は無い。
「迷いは人を陥れると同時に育むもの・・・今の気持ちを大切にした方が良い」
ただ自分を傷付ける様な真似だけはしないで。その言葉を呑み込み隆元は告げる。迷った分だけ強くなる。
まるで惑った子供の様に恐る恐る向けられた視線に思わず笑いそうになった。は独りで立とうとする。
無自覚なのか、他者に甘える事を良しとせず自ら立とうとする。その背は今にも崩れそうな程に脆いのに。
それを察しているのかは分からない。自身が父であり毛利の大殿である元就を理解しよう等と不可能な話。
それでも隆元が知る限り元就はのそれを理解している様に思えた。差し出す手は決して優しくは無い。
むしろ端から見れば女子を相手に容赦もないとすら思うだろう。だがは元就のその手に素直に縋った。
当主と奴隷なんて奇天烈な関係性を保持しながら二人は互いの孤独を癒してる様にも隆元の目には映る。
「私は元就様の僕――仮に命を下されたなら・・・必ずや遂げてみせます」
隆元の言葉に道を見つけたのかは分からない。しかし口を開いたの瞳から先刻までの迷いが消えた。
常盤色の双眸に強い意志が宿る。やはりにとって一番の活力は元就に他ならない。意思が定まった。
割り切ることを選択したのだ。そんなを見つめながら隆元は「・・・そうですか」と、物腰柔らかに微笑む。
全く――弱いのか強いのか分からない。
「詰まらぬ話を聞いて頂きありがとうございます」 「詮無き事だよ・・・それに礼なら名で呼んで欲しいな」
誰かに押して欲しかったのかも知れない。そしてその背中を押してくれた隆元に素直に感謝の意を述べる。
ふわりと柔和に微笑んで礼を述べたに一瞬目を丸くするものの、隆元も直ぐに微笑んで言葉を返した。
「御冗談を」と、真面目なは隆元を呼び捨てはしない。友人だと思ってるからこそ呼んで欲しいのだが。
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「、此処に居たんだ・・・隆元兄様も」
陣屋に躊躇いも無く踏み込んで来た少年にと隆元の視線が同時に向けられた。三男・小早川隆景だ。
小早川の養子として義兄である秀秋を支えながらも戦場で毛利を支える両川の一として働きを見せている。
概略を述べるならばそうだろうが、にとって隆景はもう一人の弟も同然だった。隆景もまた懐いていた。
故にを探して歩くのも珍しい事では無い。否、普段は部屋に引き篭もっている事を考えると稀なのだが。
「御手間を取らせてしまい申し訳ございません・・・何か御用でしたか?」
自分が探し回っていたというのに兄と談笑してるなんて。詰まらなく思うのを堪えて笑いかけるを見る。
決して隆景を侮っているわけではない。だがどこか包み込むような優しげなその口調に心が安堵を覚える。
今は亡き母に似た面影を宿すに癒しを求める様になったのはいつからだっただろうか無意識に求めた。
「・・・別に。話したかっただけ」
そして単調に用件を述べる。そもそも他の人間と言葉を交わすのが好きでない隆景の言葉は簡潔である。
その言葉には「畏まりました」と、恭しく頭を下げて微笑む。そして思い出した様に隆景を呼び止めた。
「おかえりなさいませ、隆景様」
短く告げた。その言葉に隆景は一瞬、動きを止める。そして緩慢な動きで振り返ってに視線を向けた。
隆元と同色の双眸は父親に似たのかどこか冷たい印象を受ける。否、元就よりも松寿丸を連想させるもの。
その琥珀色の双眸がを捉えた。目が合ったは穏やかに笑って「御無事で何よりです」と、続ける。
「・・・待ってるから」
一瞬もの言いたげな表情を見せるが、それを呑み込んで隆景は短く吐き捨てた。隆元が小さく肩を揺らす。
そして何事も無かった様に踵を返し部屋を出て行った。堪え切れなくなったのか隆元から笑い声が零れた。
滅多に声をあげて笑わない隆元が珍しく笑い声を漏らすのだから自然とそちらに目がいくのも仕方が無い。
「隆元様・・・笑い過ぎでは?」
苦笑に似た言葉。流石にそこまで笑っては隆景が可哀相とも思える。とは言え、あの反応は愛らしかった。
まるで予想だにしなかった出来事に鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。隆景にしては珍しい反応だ。
それに対して相変わらず肩を小さく揺らしながら「ごめんごめん」と、まるでその気もないのに隆元が返した。
まったく――毛利の者は誰も彼もに絆されている。
が毛利に仕える以前、誰よりも人と距離を置いていた隆景。幼くして母を亡くした影響もあっただろう。
元就は進んで息子をあやす人ではないし乳母にしてもどこか人と違う隆景を扱い辛そうにしてた節がある。
最初は母が亡くなって間もないこともあり母に似た面影を持つに対して良い顔が出来なかった弟妹達。
隆元とて単純に父の侍女として紹介された時は良い顔が出来なかった。母が亡くなって間もないのに、と。
それが時間を掛けてを知っていくうちに変わった。彼女はあくまで毛利元就に仕える侍女に過ぎない。
だが同時に毛利家の者にとって掛け替えのない存在でもあった。五龍も元春も隆景も自分も彼女を好いた。
いつしか家族と何ら遜色のない存在になっていたのだ。それ故に誰もがの存在を常に気に掛けている。
(揺り籠・・・か)
ぼんやりと思う
――は安息を与えてくれる。