2010年4月以前 脱稿
陣営に戻ったは簡単な手当てを済まし元就の元へ向かった。報告せずとも読めているのだろうけれど。
それは敢えて幻を用いて逃げ道を与えてくれた元就の行動から察する事が出来た。手を煩わせてしまった。
おかげで自分はこの場所に戻る事が出来たのだけれど。まだ毛利元就の役に立つという事なのだろうか。
元就の待つ陣屋の外で待っていると名を呼ばれた。即ちそれは中に入れと言う元就の無言の命令である。
「はここに」そう言葉を返して中に足を踏み入れる。中では元就が緑の戦装のままで待ち構えていた。
自然と身が引き締まる思いになるのを感じながら元就の目の前に跪く。そして、元就からの言葉を待った。
「・・・戻ったか」
抑揚ない声に耳を傾け続きを待つ。声から感情の色は捉え難く元就が何を言わんとしているか分からない。
頭を垂れたまま言葉の続きを待つ。元就に幻を使わせてしまった事に関しての叱りは端から覚悟していた。
それは当然の事なのだから。真田幸村の前で早くも技を使用させる機会をむざむざと作ってしまったのだ。
「期待に添えられずに申し訳ありません」
元就の手を煩わせてしまったことが何よりもしこりのように心に残る。は深く頭を下げてそう言葉を紡ぐ。
守護するのが務めである身ながらいつも最終的に元就に助けられている自分がどうしようもなく情けない。
今回も自分一人で切り抜けるには無理があった。だからこその元就の技による援護があったのだけれども。
「端から期待などしておらぬ」
一言吐き捨てられた言葉に苦笑が浮かんだ。元就らしい取り繕った言葉ではなくてストレートな言葉である。
これを誰かは手厳しいと言うが実際のところはそうではないと思う。元就は不必要な言葉を語ろうとしない。
本当に必要な言葉のみしか語らないのだ。だからこそ発せられたその言葉に重みがあってとても心地良い。
とは言え、確かに言葉には刺を感じる時もあるし厳しいと思う事も少なくない。だが受け入れるべき事実だ。
元就の言葉は未来に期待できる者に対しては成長を促すものだ。否、誰に対してもそうなのかも知れない。
それをどう受け取るかはその人次第。それを良く受け止める者は毛利の役に立てるだけの成長を遂げる。
ある意味、厳しいが人を育てるのが上手な人だと思う。それを理解する人はほんの一握りで少ないけれど。
「それは何ぞ」
不意に眉を顰め元就が吐き捨てた。その視線の先にはの着物の裾で隠れた左手。ハッとしたが遅い。
慌て左手を隠す様に覆う。血を洗い流したつもりだったがまた滲んで来ていたらしい。血の香で気付かれた。
「かすり傷で・・・「我の手を煩わすなと申した筈よ」」
誤魔化す様ににが笑って言葉を発しようとする。だがそれを遮り元就が冷やかに吐き捨てた。是非も無い。
「・・・申し訳ありません元就様」 。それ以上の言葉が他に思い浮かばずに深く頭を下げてそう言葉を返した。
最初の命である時間稼ぎは辛うじて果たせたが主君の手を煩わせるは迷惑をかけるでミスの連発である。
「…もうよい下がれ」
次の戦まであまり間が無い。
小さく溜息吐いたかと思いきや元就が静かに言葉を紡いだ。どこか穏やかなその声調に自然と顔が上った。
深く澄んだ琥珀色の双眸と常盤色の瞳が交差する。物言いたげな視線を感じるものの言葉は紡がれない。
だが何時になく優しさを孕むその瞳には目の遣り場に困り視線を漂わせた。どう反応すれば良いのか。
短く「畏まりました」と言葉を返してその場を去ろうと立ち上がる。だが不意に名を呼ばれて呼び止められた。
まだ何か用件があったのだろうかと、首を傾げて振り返ると元就はやはり言葉を発せずにを見つめた。
不意に立ち上がったかと思うと元就が距離を縮めた。小柄といえどもと並べばやはり相応に身長差がある。
直ぐ近くで見つめる元就の顔はやはり綺麗だ。・・・と、そうではない。一体この距離感は何だというのだろう。
「この傷あまり見縊るでない」
怪我した左手を壊れ物を扱うかの様な動作で手に取り元就が言う。突然の出来事に思わず息が詰まった。
こんな風に触れられたのが初めてというわけではない。しかし、こんなに優しい元就が稀であるのも事実だ。
動揺と戸惑いから妙に胸の鼓動が早く打つのを感じた。向けられたどこか真摯な眼差しに動揺を隠せない。
「・・・元就様?」
無意識に言葉が漏れたらしい。視線を上げると元就の琥珀色の双眸とぶつかる。ドキリとして視線を外す。
気遣って貰っている事実は嬉しい。しかし、自分にそれ程の価値があるのかと問われれば微妙なラインだ。
あまりにも近い距離感に思考が掻き乱される。じっと見詰められたかと思いきや、不意にその手は離れた。
離れた温もりがほんの少し寂しく思わせる。無意識にその手を掴みそうになるのを堪えて元就を見つめた。
「貴様はまだ役に立つ。・・・それだけの事よ」
不意に顔を背け椅子に腰掛ける元就を見送る。フンッと鼻を鳴らして吐き捨てられた言葉に笑みが漏れる。
元就が己に時折見せる反応がどう仕様もなく愛しく思える。心を許されているのだという自信が持てる瞬間。
自惚れるなと言われそうだが言葉にしない限りはタダだ。この立場だけは誰にも譲りたくないと切実に思う。
「御意に」
元就のその言葉には一瞬目を剥くものの、胸に手を当て小さく頭を下げると畏まったようにそう言った。
そして元就に「散れ」といつもの動作でそう命じられる。短く返事を返して言われるがままに陣屋を後にした。
陣屋を出た瞬間に先程までの緊張が解れて肩の荷が下りた。同時に堪えていたものがどっと溢れかける。
くすりと小さく笑みが浮かぶ。元就の時折見せる顔や反応はあの頃と変わらず懐かしさと同時に嬉しくなる。
松寿丸として出会った頃の元就も今の元就もにとって何一つ変わらない。誰よりも大切な主君なのだ。
思い出に浸ると思わず頬が緩んだ。出会った年数で言えば7年と僅かであるのに思い出はあまりに多い。
毛利は勿論この中国の地には数え切れない思い出がある。そして、そのどれを見渡しても元就が居るのだ。
流石に外でにやにやと笑ってしまうのは不審である。慌てて口を引き締め直し治療用の陣屋に足を進めた。
応急用の陣屋に踏み入ると、どうやら先客が居たようだ。見慣れた背格好の人物が大きな溜息を漏らした。
「秀秋様?」。幸せも全力疾走で逃げ出しそうな深い溜息を漏らすその人には遠慮がちに声を掛ける。
傷の手当ての途中で警戒心が解けていたのだろうか。驚かすつもりは無かったが盛大に驚かれてしまった。
「わわっ!殿!?」
驚いた拍子に腰掛けていた椅子から転がり落ちた秀秋を見て思わずにが笑った。幾らなんでも驚き過ぎだ。
何か疚しい事があるわけはないのだからそこまで驚く必要は無い。が気配を消していたわけではない。
「先の争いでお怪我でも・・・?」
尻餅をついた秀秋に手を差し出しては気遣う様に尋ねる。秀明は小早川家の世継ぎで隆景の義兄だ。
小早川といえば吉川に並んで毛利を支える両川の一。実質小早川として毛利を支えているのは隆景だが。
しかしその当主をおざなりには出来ない。平和を好む気立ての穏やかな秀秋の事をは嫌ってはない。
だが、
「秀秋さん、ここに居たのですか」
陣屋内に響いたその声には一瞬眉を顰めて意識を陣屋の入り口に集中させる。秀秋は嫌いではない。
しかしどうしてもこの男だけは好感を抱くことが出来なかった。おや、と、を視界に映して彼の人は言う。
「お久し振りです天海殿」
最低限の礼節として頭を下げてその言葉を紡ぐ。しかしそこに相手への敬意の念は存在しない。冷めた声。
にしては珍しく、だが、その声の差異を聞き分けるものは少ない。そして今この場にその人らは居ない。
天海は穏やかに微笑むと「これはどうも」と、己も軽く頭を下げた。そして椅子に座る秀秋へと視線を向けた。
「手当ては済んだのですか?」
そう尋ねられると秀秋は何とも言い難い渋い顔をした後、バツの悪そうな表情を浮かべて未だだと告げる。
当り前だ。陣屋に訪れたに驚いて尻餅ついてから然程時間は経っておらず、手当てが済む筈もない。
天海と秀秋を交互に見遣った後、小さく溜息を漏らして「秀秋様、失礼致します」と、傷口に手を伸ばす。
「・・・かたじけない」
この年で女人に対しての免疫が薄いのか一瞬びくりと肩を揺らす秀秋。そして申し訳なさそうにそう言った。
それに対して「とんでもございません」と、小さく微笑む。だが、怪我の場所を見て思わず呆れそうになった。
逃げる途中に転んだのか。それとも、転んだ拍子に隆景に踏まれたのだろうか。怪我は顎の掠り傷だけだ。
これならばもっと重症の傷を負った者が他に山ほど居るだろう。言ったら悪いが秀秋のそれは単なる軽傷。
比べるわけではないがの左手の怪我に比べれば驚く程軽い。怪我が無いに越した事は無いけれども。
それに小さいとは言え怪我は怪我だ。医学の発展していない戦国時代において掠り傷も馬鹿に出来ない。
傷口から菌が入り破傷風にならないとも知れない。先程も言ったがこの時代は医学に関する知識が乏しい。
今でこそそれなりに知られているが破傷風菌の存在さえ知ってるか怪しい。軽傷を馬鹿にするべからずだ。
折角重傷を負わずに命を拾ったのだ。こんな軽傷程度で命取りになっては堪ったものでないとは思う。
「少し沁みますよ」
砂が混じった傷口を擦り傷に水で湿らせた布で拭けば沁みるだろう。覚悟を決めろばかりに秀秋に告げる。
秀秋もまた覚悟を決めようと思ったのだろう。思いっ切り目を瞑った所為か眉間に皺がよっている。苦笑い。
痛みを堪える様なくぐもった声が聞こえる。なるべく沁みないように気を遣いながら傷口の砂を拭い取った。
「随分と手慣れているのですね」
擦り傷の消毒くらいは元の世界でもやっているのだから手慣れたもの。それを見ていた天海がぽつり呟く。
「そうですか?」と尋ねると間髪入れずに「えぇ」と、返答が返って来た。それは買い被り過ぎだろうとも思う。
本当はこれで絆創膏でも貼っといたら完璧なのだが、生憎この時代に絆創膏は存在しないのでここまでだ。
「・・・ところで天海殿。秀秋様に御用があったのでは?」
あまり同じ空間に居たくない。そう問えば「あぁそうでした」とワザとらしく天海は言葉を返し秀秋に向き直る。
見たところ自分が居たら話せない用件でも無いらしい。秀秋の手当てを終えて今度は自分の手当てに移る。
陣営に戻ってすぐ手当てはしたがやはり甘かったのか包帯を解くと新たに血が滲んでいた。心無し痛んだ。
脱脂綿の代わりに手拭いを切り分けた物を水に濡らして血を拭う。案の定、水が沁みて思わず眉を顰めた。
「痛そうだなぁ・・・大丈夫なの?殿」
槍の刃の部分を素手で往なしたからその傷は掠り傷に比べて相当深い。覗き見た秀明が顔を顰めて問う。
確かにぱっくりと開いたこの傷口は見ていて気持ち良いものではない。困った様に笑っては小さく頷く。
次の戦までに治るかは怪しいが綺麗に切れている為、通常よりも治るのは早いだろうと勝手に踏んでいる。
「ありがとうございます。しかし次の戦には大事ありませんよ」
医師としての資格を持つわけではない素人判断。秀秋を安心させるようにそう紡いで血が止まるのを待つ。
先刻は血が完全に止まるのを待たなかったから血が滲んだのだと思う。今度はちゃんと止まるのを待った。
新しい包帯を手に取り器用に左手に巻こうとする。が、布を傷口に宛てたまま包帯を片手で巻くのは難しい。
思いの他手間取る。は困った様に眉を顰めて何度も巻き直しを試みるが何度やっても上手くいかない。
彼是数回それを繰り返す間に不意にの口から小さな溜息が漏れた。不可抗力とはいえ情けない話だ。
「殿・・・」。それを見ていた秀秋も見かねたのかも知れない。おどおどしさは消えないものの声をかけた。
小さく返事を返して顔を上げたの手元は相変わらず包帯を巻くのに苦戦している。秀明は笑ってしまう。
「ぼくでよければ巻きましょうか?」
天海に用件を聞かないのは聞きたくないからか、はたまた、後でも事足りるからなのだろうか。秀秋が言う。
最初は小早川家の当主に自分の様な者の手当てをさせるのはどうかと思った。が、遣り難くて仕方がない。
申し訳ない気持ちは募る。だが、諦めた様に苦笑を浮かべて「お願いします」と、丁寧な仕草で頭を下げた。
小早川秀秋の印象は何事に関しても鈍臭く、そして常におどおどした態度を見せる為、他者を苛立たせる。
言ってしまえば小心者であり己の意思を言おうとしない。残念ながら他力本願で上に立つ者の器ではない。
しかしその性格は温厚でとても心優しい気質の持ち主だ。武将としては微妙でも人間的には気持ちが良い。
だからこそ元就もそんな秀秋を呆れ罵りながらも見捨てたりはしない。多少の扱いの粗さは目立つけれど。
「・・・っと、よし。できたよ」 「申し訳ございません秀秋様」
後に「ありがとうございます」と、付け足す。やはり人にやって貰った方が綺麗に巻けるし何より時間が早い。
自信気にそう言った秀秋はどこか嬉しそうである。この瞬間だけはほんの少し頼り甲斐のある人に映った。
秀秋のこんな顔は初めて見たかも知れない。「どういたしまして」と笑う秀明には穏やかに笑い返した。
同じ空間に天海が居るのも忘れて穏やかになれた気がする。これが本来の小早川秀明という人だろうか。
もしそうなら勿体ない。元就の様な絶対的な存在でも元春の様なカリスマ性でも隆景の様に強かでも無い。
言うなれば隆元に似ている。隆元もまた父や弟達の様な強いものを持たない。されど彼は人を惹き付ける。
その理由は何故か。毛利の臣下と、毛利両川の吉川や小早川が従うのは彼の人格故にだ。隆元は優しい。
武将にするにはあまりに優し過ぎる。争いを好まない。故に元就はまだ現役として毛利家の当主の立場だ。
だが既に毛利の中ではいつ座が譲られても問題ない体制が整っている。毛利の者達が隆元を受け入れた。
後は来るべき時が来るのを待つだけ。元就が隠居したとしても毛利は今までどおりの体制でやっていける。
つまり、統べる者に必要なのは絶対的な存在でも、カリスマ性でも強かさでも無い。確かにそれらも必要だ。
だが最も必要なのは信頼されている事。それは絆と呼ぶべきなのだろうか。友情とはまた違う、臣下との絆。
絆を作るならまずその人を知らねばならない。隆元は在るが侭の己を臣下達に見せた。そして認められた。
おそらく秀秋に必要な事は自分を見せるという事なのだと思う。確かに立場が曖昧で大変なのだろうけど。
「それで天海・・・「!居るか?」」
改めて天海に用件を聞こうと振り返って口を開いた秀秋。それに重ねて足音と共に元春の声が響き渡った。
驚くと同時に顔を強張らせる秀秋。「おや」と、天海は元春を見遣る。そして、も入口の元春を見つめた。
そして直ぐに穏やかに微笑んで「どうなさいましたか、元春様」と、言葉を紡いだ。どうやら探していたらしい。
「戻ったなら顔みせろよ」と、不服げに元春が吐き捨てる。「申し訳ございません」と、宥める様にが笑う。
「兄者が探してたぜ」
一瞬目を丸くするがは直ぐに穏やかに微笑む。「畏まりました」。小さく頭を下げて足早に陣屋を出た。
その華奢な背中をじっと見つめる秀秋だったが元春の鋭い眼光に思わず竦み上がった。何か言い掛ける。
だが外でが元春を待っている事に気付いたのだろう。ふいっと顔を背けて後を追う様に陣屋を去った。
「・・・・・・」
まるで嵐が吹き抜けたかのような間だった。癒しと緊迫が一度に訪れてほんの少し胸が圧迫されて苦しい。
しかし、大の苦手なあの元春に一瞥されたというのに、何故かいつもの様な屈辱に似た感情が生まれない。