ハッと目を開けると目の前にはエース様の顔があった。それも目と鼻の先と、もの凄い至近距離にあった。
あまりにも驚いて反射的に突き飛ばしそうになったが、運動不足を相手にエース様が遅れを取る筈が無い。
するりと回避して「うわっ何だよ」と、不満げな目を向けた。その声に漸く私も冷静さを取り戻すことが出来た。


「危ないじゃないか」

と、言葉を続けたエース様だったが少し安堵した様な顔をしていた。どうやら陽射しに負けて倒れたらしい。
さきほどまで駅のモールに居た筈だが、周囲を見渡すとモール内ではなくどこかの個室で休まされていた。

「・・・ここは?」

墓守領ではない。ふと視線を動かすと鮮やかなピンク色の髪が目に入った。「此処は駅だよ」と、彼は笑う。
猫耳が印象的なその人が浮かべる笑みはまるで猫みたいだった。倒れた私を見つけてくれたのは彼らしい。
流石のエース様も私を引き摺って帰ることは出来なかったようだ。差し出された飲み物を受け取り喉を潤す。

「まったく・・・きみも限界なら最初に言ってくれよな」

「焦っちゃったぜ」と、エース様に愚痴られるが最初から限界を察しろだなんて無理難題を押し付けてくれる。
私自身、まさかここまでだとは思わなかった。そもそもエース様が外に連れ出さなければ倒れなくて済んだ。
あまりに理不尽な物言いにこちらもムスッとしてしまう。その間に入った猫さんが「まあまあ」と双方を宥める。

「あ、もうすぐ駅長さんが来るから」

「あんたはもう少し休んでおきなよ」と、ベッドに押し戻された。いやいや駅の領主様が訪れるなんて大事だ。
何でこんなことになってしまったのだろう。嗚呼もう早く領土に戻りたい。領土内の自室で本を読んでいたい。
困った様にエース様に目を向けると何故かしたり顔をしていた。何だろう私が役無しでなければ殴りたい顔。

とは言え、流石にこれ以上の迷惑はかけられないから大人しくしている。猫さん、と呼んだが彼は役持ちだ。
顔がある。噂程度に聞いたことがある。自由気ままな猫。つまり彼がチェシャ猫のボリス=エレイ様らしい。
駅を滞在場所にしていたとは知らなかった。そしてこれからやってくるのは駅長・ナイトメア=ゴッドシャルク。
夢魔。役持ちの中でも相当の力を持つと聞く。会いたくない。帰りたい。こんなに墓守領が恋しくなるなんて。


Knock

控えめなノック

それにエース様と猫さんが応えてドアが開く。そこには予想したよりずっと小さな駅の領主様が佇んでいた。
銀色の髪に隻眼。まるでお人形のような容姿。可愛らしいと形容するに充分な姿をした小さな駅の領主様。
私の中の時計が不可解な動きをした。実際に目の当たりにしたわけではないから表現し難いのだけれども。


「エース、勝手に領土を跨ぐなと言われているだろう」

「あまつさえ自領土の者まで連れ出すなんて・・・」「下手したらルール違反に当たるぞ」と、呆れ声の領主様。
少なからず私のことも気遣って下さっているのか懇々と説教を始める。が、案の定、エース様は聞いてない。
否、正直あまり私も聞けてなかった。それよりも驚いたのは私がこの人を"知っている"ことだった。どうして。
そりゃ子供といえど領主なのだから噂に聞いたことはあるし、知っていたとしてもそれはあたり前なのだろう。

でも、そうじゃない。


「・・・・・」

私は"彼"を知っていた。困った様に小さな領主様見遣る。その視線に気付いたのか領主様はこちらを見た。
そして少し驚いた顔をする。「お前は・・・」と、言い掛け口を開いた。が、領主様はその先を口にしなかった。

「知っているようだが、私の名前はナイトメア=ゴットシャルクだ。駅長をしている」

幼いながらもその言葉遣い、雰囲気は領主に相応しいもの。今、この場に居るのは私を除いて皆役持ちだ。
役無し風情が立ち合うことは許されない顔触れ。とは言え、立ち上がれる程充分にまだ体力が戻ってない。
不敬だがベッドから身体を起こした状態のままで「です」と、名乗る。その瞬間、初めて怖いと思った。
意味のある人達に囲まれていることが怖ろしく思えた。いや初めてなんかじゃない。ずっと前から知っている。

知っていたから、この感覚が怖くてずっと部屋に引き籠っていた。意味があるものの中に存在する無意味。
例えるなら純粋物質の中に入り混じる不純物。綺麗なものを穢す存在が気持ち悪くてどうしても許せない。
だから誰にも干渉されないあの部屋が好きだったのに。外なんて出たく無かった。自分だけの世界があった。
なのにそこから連れ出してしまったのは紛れもないエース様だ。そして、そのエース様もまた意味ある存在。


「・・・?」

俯いたままの私を不思議に思ったのかエース様が覗き込む。伸ばされた手を身体を少しだけ傾けて避ける。
顔をあげてエース様を見ることが出来ない。怖かった。誤魔化し切れない程に怖くて、恐怖を押し殺せない。
その恐怖心は震えという形で表面に出る。カタカタと震える私を見てエース様が困惑しているのが分かった。

「その子、俺たちが怖いんじゃない?」

「だって役無しだろ」と、先程から静観していた猫さんが口を開く。最初に話し掛けてくれた時よりも冷たい声。
その言葉に言葉を返す気力が無い。ただ真っ白なシーツを見つめる。この白に溶けてしまえたらいいのに。
そうすればこれ以上の不安を感じなくて済む。言い知れない不安感から解放される。怯えなくても良くなる。

だから――


「おいチェシャ猫、言葉を選べ」

呆れたように小さな領主様が猫さんを咎める。とは言え、こんな態度を取られたら決して良い気分で無い筈。
現にこちらに目を向けることはしない。だけどそれが本来のあるべき形。安心するのと同時に少しだけ痛い。
この人達が嫌いなわけではない。だけども役持ちと役無しではそもそも釣り合わないんだ。そのことが痛い。

「・・・・怖いの?」

そう尋ねたのはエース様だった。いつもと違う。一緒に居る時間が増えた分だけ差異を察する事が出来る。
それはいつもと明らかに違った。全身から総毛だつ感覚。顔を見ることはおろか、言葉を返す事も出来ない。
分かっている。ここで言葉を返さないといけない、と。そう分かっている筈なのにどうして言葉が出て来ない。


――駄目だ。

このままじゃ駄目だ。失くしてしまう。いや、あるべき形だからそれで良い。そうでなくてはならない。駄目だ。
ただ無言を貫く私にエース様が溜息を漏らした。立ち上がる気配。「・・・いこう」と、猫さんと領主様に告げた。
行かないで、と、言いたい。だけど、言葉がでてこない。手を伸ばそうとした。だけど残酷にも扉は閉まった。



静寂の部屋

(涙さえ出てこない私は薄情なのでしょうか)



いままで思いあがり過ぎていただけだ

2013年11月5以前 脱稿